天智・天武天皇の謎 『日本書紀』の虚偽と真実    大和岩雄著

 『日本書紀』は、天智天皇と天武天皇は父母を同じにする兄弟で、天智が天武の兄と書いている。天武は天智の実弟ではなく、天智の異父兄であったとみる。『日本書紀』は一見客観的な正史の形式で書かれているが、その客観性の形式の裏には、個人的な意図がひそんでいる。実像を探れば、天智と天武は異父兄弟で天武が兄であることが明らかになるが、それと共に、こうした事実をかくして、『日本書紀』が、天武は天智の実の弟にした理由も、明らかになる。

 『日本書紀』によれば、天智天皇の父の舒明天皇が亡くなった舒明十三年(641)に、葛城皇子(天智天皇)は十六歳とあるから天智十年(671)の崩御の年は、数え年四十六歳である。ところが、天武天皇の年齢については、『日本書紀』には、まったく記載がない。しかし、鎌倉中期の後宇多天皇(1275−87)の頃に成立した『一代要記』や南北朝の時代に成立した『本朝皇胤紹運録』には、天武天皇の崩年を六十五歳とする。この六十五歳を採ると、天武天皇は天智天皇より四歳年上になってしまう。(天武天皇 686−65=621 天智天皇 671−46=625)

 『日本書紀』は、蘇我入鹿暗殺の首謀者を中臣鎌子(藤原鎌足)と書く(皇極天皇三年条)。だが、入鹿暗殺の首謀者・主役は、軽皇子(孝徳天皇)と蘇我倉山田石川麻呂とみる。二人と鎌足・中大兄は親しかったから、鎌足も謀議には参加しただろうが、『日本書紀』が書くように、鎌足が中大兄に相談して、二人が共謀してやったというのは事実でないだろう。鎌足が孝徳天皇と疎遠になって中大兄と親しくなったのは、孝徳天皇を難波京に置いて、先帝(皇極)や中大兄・大海人皇子、更に皇后(間人皇女)まで倭京の飛鳥へ移ってしまった白雉四年(653)のすこし前と考えられる。国博士の旻法師(みんほうし):は白雉四年(653)六月に亡くなっているから、それ以後に、先帝(皇極)らは難波を去ったとみられる。
 鎌足は旻法師の弟子だが、旻法師の病状が悪化した五月に、十一歳の長男定恵(じょうえ)を、学問僧として入唐させている。定恵の入唐は、孝徳天皇とのつながりを切るための行動と思う。鎌足の師の旻法師は、孝徳朝の国博士として、飛鳥から難波にまで来ている。その師が支持する孝徳天皇を裏切るわけにはいかなかったが、師の旻法師が再起不能といわれたことが、鎌足に定恵を入唐させる決意をさせ、定恵入唐直前の白雉四年(653)のころ、中大兄と鎌足の親交がはじまったのであろう。
 653年前後の中大兄と鎌足の関係を、644年(皇極天皇三年)までさかのぼらせたのが、『日本書紀』である。ほぼ九年ほど早めたために、その創作の邪魔になる旻法師―軽皇子(孝徳天皇)―鎌足、の関係を消したのである。『日本書紀』では、旻法師を南淵請安(みなぶちのしょうあん)にすりかえて、南淵先生のところへ中大兄と鎌足は通っていたとした。『日本書紀』の編者は鎌足像を中大兄と同じに巨像化して描こうとした。

 『日本書紀』は斉明紀のトップに初め用明天皇の孫高向(たかむく)王に嫁して、漢(あや)皇子を生まれたとある。漢皇子が中大兄皇子の異父兄になっているのは、大海人漢皇子が中大兄皇子の異父兄であったことを意味している。天武(大海人漢皇子)が天智より年長となる伝承があるのは、当然のことである。この異父兄の存在が、中大兄皇子が孝徳天皇の死後、ただちに即位できなかった理由で、そのことを『日本書紀』の編者は、異父兄の漢皇子を斉明紀のトップに記すことで暗示したのであろう。

 斉明天皇の死後六年間、中大兄が即位できなかったのは、異父兄(大海人漢皇子)が存在していたためである。斉明天皇の死後、大海人漢皇子と中大兄皇子は妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)(孝徳天皇の皇后)を、「ナカツスメラミコト」にして、争いを避けた。間人皇女が「ナカツスメラミコト」であったと記すことは、中大兄の巨像化にマイナスになるから、女帝の期間を天智称制にし、女帝の統治元年を「天智元年」にしたのであろう。天智紀の長い称制は、中大兄皇子の異父兄の存在を認めることなしには、説明がつかない。

 天智七年の天智天皇即位の祝賀での長槍事件も大海人皇子を異父兄とみることによって、なぜ大海人皇子が長槍を持ち出したかが、はっきりしてくるのである。中大兄皇子と大海人皇子は、母は同じ斉明天皇だが、父がちがっていた。中大兄皇子の父は舒明天皇であったから、血縁の上でも、皇位継承順位からいっても、異父兄の大海人皇子より正当性があるとみられて、皇位についたのであろう。そのことは異父兄も認めたが、天皇になった弟が、酒宴で兄をないがしろにする態度を示したので、大海人皇子が怒ったのだろう。だから、怒った兄より、そのような原因を起こした弟を、鎌足は諌めたのである。

 この即位の祝賀の宴会から数ヵ月後に行われたのが、五月五日の蒲生野での遊猟と宴会だから当日の額田王と大海人皇子の唱和は、長槍事件での大海人皇子の行動のマイナス面を、プラス面に変えるための計画的行動ではないか。額田王と大海人皇子が前もって歌を作っておき座興のために二人が演じた小歌劇かもしれない。
「私の妻さえ、あなたの『妻』になっているほど、天皇の権力は強い」、と天智天皇を賛美し、「私はあなたに服従していますから、わが妻をあえて『人妻』といいます」、と二人の唱和で示したのであろう。

 兄であり、誇り高い大海人皇子は、長槍事件をおこしていなかったら、このような歌を宴席ではうたわなかったであろう。天智即位の宴席での行動は、鎌足によって無事におさまったが、非礼は大海人皇子にあった。このマイナスをプラスに変えるために、兄としての誇りをすてて、妻である額田王と共に相謀って、天智後宮に奉仕している額田王を、天智天皇の「妻」である、と詠んだのである。この自嘲をこめた歌の「人妻」には、長槍をもち出したのとはちがった形だが、大海人皇子の鬱積した心情がうかがえる。天智天皇の即位に関しては、異父兄の大海人皇子との間には、微妙な心の葛藤があった。それが『藤氏家伝(上)』(大織冠伝)に書かれる長槍事件や、『万葉集(巻一)』に載る額田王と大海人の唱和に、あらわれている。

 「原日本書記」は、天武王権が革命政権であることを明示し、神武の革命政権に重ねて、天武王権の正当性を主張した。しかし、首皇子(おびとのみこ)(聖武天皇)の立太子の年、和銅七年(714)からはじまった国史編纂で、首皇子の即位を正当化する目的が加わった。そのためには、首皇子の母方の血統(藤原氏)が、皇位につくのがふさわしいい家であることを、国史に明記する必要があった。しかし、藤原鎌足顕彰を全面に出すのは、国史の性格上まずいので、天武に対して天智を巨大化して、天智の巨大化イコール鎌足の巨大化という書き方をした。