足利尊氏と直義 峰岸純夫著
足利尊氏・直義兄弟が協力して鎌倉幕府を崩壊させ、ついで後醍醐天皇の建武政府を打倒し、室町幕府・鎌倉府の成立を実現してきた。尊氏は、部門の長である将軍として卓抜した能力を発揮し、一方、直義は内政全般を取り仕切り、朝廷との折衝に当たる。そのパートナーシップによって、幾度かの危機を乗り越えて政権の樹立、安定に突き進んできた。しかし、その過程で生じた足利氏内部の矛盾が尊氏・直義の対立・抗争、観応の擾乱という形をとって展開し、駿河の薩埵山合戦で尊氏の勝利によって決着する。
建武3年(1336)10月、足利尊氏の和平工作は成功して、後醍醐天皇は比叡山から帰京した。後醍醐天皇は、新田義貞を北陸に転進させ、京都に帰って皇位継承のしるしである三種の神器を光明天皇(北朝第二代天皇)に譲渡し、また、足利氏の政権を認知した。尊氏・直義は政権の基本方針として建武式目を制定した。その後、延元3年(1338)8月11日に尊氏は征夷大将軍(正二位)に任じられ、直義は左兵衛督(従四位上)に任じられ室町幕府の成立の形式が整った。
幕府が建武政府の後を受けて政権の座に着いたとき、公家・武家・寺社の支配階級はもとより、その支配する荘園・公領のもとで農業を行い年貢公事を負担する百姓、都市を中心に商業や流通に携わり、また手工業製品を生産するなどの商工業者に対しても「公」として社会的職務執行をしなければならない。それと同時に軍事政権としての幕府は、後醍醐天皇に味方する南朝方などと戦争を継続していかなければならない。ここに内政と軍事という足利政権(幕府)が抱えた、最大の矛盾が生ずることになった。尊氏は将軍としてこの軍事と内政のバランスを維持して政権と国内の安定を図る責務を負わされていた。家政・軍事面を尊氏、内政面を直義が分掌し、尊氏の下には足利家の執事を担当してきた高一族(高師直)などの武断派が、直義の下には上杉氏などの文治派が配置された。
戦乱のなかで、軍事的に占領した所領を暫定的に部下に預けて置く守護や侍大将、それを統括する高師直がおり、それを返却しないで永続的に支配し続けようとする配下か武士たちがおり、その所領が彼らの合戦参加や勇敢な戦闘の誘い水になっている。その一方で、幕府という国家権力を行使するに当たっては法や道理に任せて公平に政務を執行し、公家・寺社・武家のバランスを取った政治を施行していかなければならない。この二つの命題は矛盾してくる。この矛盾が、尊氏を支える直義と高師直の間に亀裂が生ずること、それぞれの派閥形成が急速に進み、それが地域間の対立に絡んで進行していった。
この対立は、直義ー高師直の対立から、尊氏・高師直ー直義・上杉氏の対立に発展し、やがて尊氏の子息の義詮ー直冬(尊氏の隠し子・直義の養子)の対立になっていった。
南朝方との合戦において高師直・師泰・師冬ら高一族の功績は大きい。湊川合戦での楠木正成の討伐、近江・山城における新田義貞との争闘、北畠顕家の西上作戦の阻止、四条畷合戦での楠木正行の討伐、南朝方の吉野制圧、常陸合戦における北畠親房方の制圧などの大きな軍事的な局面に必ず登場し、合戦を勝利に導いている。高氏は、足利氏の家政を預かる執事として、鎌倉時代以来勢力を振るっていた。
これに対し、上杉氏は京下りの官人である。建長4年(1252)公家出身の上杉重房は、鎌倉に下向した初の皇族将軍宗尊親王(六代将軍)に従って鎌倉に下り、将軍の補佐役として仕えて鎌倉御家人となっていった。その後、足利氏との姻戚関係で上杉氏は足利氏の一族並みの有力家臣となった。
上杉氏と高氏は足利氏の二大有力家臣であり、両者はライバル関係にあり、高氏は軍事部門の担当ということで尊氏を支え、上杉氏は内政担当の直義に密着していた。関東では、上杉憲顕が高師冬とともに、当初は足利義詮、ついで足利基氏の関東管領を支える執事となって東国の支配に当たっていたが、両者の対立が顕在化した。高師直による上杉重能の誅殺は、養子上杉能憲による大虐殺を招き、権勢を振るった高一族(師直・師泰)が一掃された。この時点で、足利尊氏は自分に忠誠を尽くした高一族を守れなかったことを痛恨の思いを抱き、上杉能憲をして高一族の誅殺を実施させた足利直義への報復を心中決したと思われる。薩埵山合戦は、尊氏・直義対決の天下分け目の決戦であった。この合戦が両者の長期にわたる観応の擾乱という対立抗争に尊氏派の勝利によって決着する。