太平記        森村誠一著

 南北朝動乱の種は第88代後嵯峨天皇(1242〜1246)にさかのぼる。後嵯峨天皇は承久の乱(1221)後、鎌倉幕府の後押しによって即位した関係上、関東からの干渉を許さざるを得なかった。鎌倉からの要請にこたえて第1子皇子、宗尊むねたか親王を征夷大将軍として鎌倉に下した。後嵯峨天皇を継いだのは第2子、後深草である。だが後嵯峨は第3子、亀山を偏愛して後深草より亀山に無理に皇位を譲らせた。これが後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統による南北朝動乱の源となった。

 元寇(文永の役 1274 弘安の役 1281)に伴う戦費は幕府の財政を破綻させ、守りの戦いであったので、戦利品がない。戦後の論功行賞が充分に行き渡らなかったために、次第に、御家人たちの心が幕府から離れていった。

 朝廷が二つの皇統に分かれ、鎌倉幕府は持明院統を支持していた。南北朝期の尊王倒幕の有志は、蒙古襲来後なんの恩賞も受けず、鎌倉幕府に対して不平不満をもっている御家人や、各地の悪党(反幕府的な地方の豪族や名主、地侍)が幕府と対立している後醍醐天皇に接近するようになった。

 建武の親政の基本政策の一つとして国司制度を復活させたことが、公卿にのみ厚い偏頗な論功行賞と相まって全国に混乱に拍車をかけた。源頼朝以来、地方の領主としては武士の守護がいた。ここに貴族の国司を復活させたために、一国に二人の領主が生まれた。しかも守護は国司の下位に置かれ、実権は守護が握っていたので、両者の間に紛争が絶えなかった。護良もりなが親王は全国の不満御家人に対して強圧政策をもって臨んだので、御家人たちは足利尊氏を頼んだ。護良の政策が、尊氏の勢力を強める結果となった。元弘3年(1333)10月9日発足した雑訴決断所は、尊氏の献策によって、土地争いに対処するために設けられたものである。公卿の国司と、武士の守護との争いに際して、公卿の肩をもった護良が、武士の衆望を失ったのは当然の結果である。護良は直属の郎党を持たない。武士団の支持がないことには、尊氏に対抗できない。

 建武の親政に失敗した後醍醐を早々と見切りをつけながらも、名分に殉じた楠木正成、正行、また強直なまでに南朝に対する信義を貫いた新田義貞および新田一族に、わずかに信ずるに足る人物像を見だせるのみである。この時代はそれぞれの生き残りをかけた提携と裏切り、権謀術数、内紛と下克上などが動乱を促し、時代の潮流を形成していった。このような時代を生き抜いていくためには、信義にこだわらず、名分を捨て、目的のためには手段を問わない冷徹な意志が生存条件になる。尊氏が生き延びてこられたのは、人間性と言うよりは、時代相に対する適応性と呼ぶべきだろう。

後醍醐天皇
 後醍醐天皇(1318〜1339)が理想とする王権は、延喜(醍醐朝 897〜930)、天暦(村上朝 946〜967)時代で、幕府や院政、摂政、関白など天皇の権力に干渉する存在のまったくない、天皇が国家権力を完全に掌握する絶対主義的天皇制の復元である。
 後醍醐天皇は歴代の天皇の中で最も野心的な天皇の一人であり、その性格は豪放にして、果断な実行力に富んでいる。人心収攬術に富み、権謀術数にたけている。鎌倉幕府の軍事力で何度か幕府討滅の企みを押し潰してきたが、その都度立ち直っている。歴代の天皇の中でこれほどパワフルで不屈のエネルギーに満ちている天皇がいたであろうか。

護良もりなが親王
 護良もりなが親王は18人の皇子の中で後醍醐が最も頼みとするものである。筋骨たくましく、闘志溢れる積極的な性格で、父後醍醐の気質を最も忠実に受け継いでいる。嘉暦2年(1327)12月6日、護良親王は法号尊雲法親王として叡山に入り、延暦寺の第116世天台座主に補任された。尊雲は元徳2年(1330)3月、座主を弟の宗良むねなが親王に譲った後も叡山の大塔おおとうに留まり、大塔宮と呼ばれるようになる。
 護良は後醍醐、最年長の皇子としての権威に加えて、その武勇と功績に武士の中にも心を寄せる者も多い。楠木正成、新田義貞、名和長年などの有力な武臣も護良のシンパである。

楠木正成
 楠木氏の遠祖は第30代敏達天皇とされている。敏達天皇から正成に至るまで700年余、橘諸兄より600年つづいた。楠木氏の勢力は摂津、河内、和泉の三国に限られているが、奈良街道の交通の要衝を押さえ、朱砂や橘の取引を通し全国の商人、運搬業者、修験者、旅芸人、傀儡くぐつ(忍者)の群れなどと連絡を保ち、全国から情報を蒐集していた。正成には「弓矢を取って名を得たる」武将としての才能に加え、朱砂の取引やミカンの栽培者としての商才や甥に能楽の偉才、観阿弥を持つ芸能の才がある。この多面的な才能の嗅覚が敏感に衰運の北条勢力と上昇気流に乗った朝廷の交代を嗅ぎ分けていた。正成には後醍醐を核とした時代の流れがわかるのである。
 正成は名利を求めず、大義名分のためにだけ命を捨てられる希代の軍師であると同時に戦略家である。北条の大軍は正成の固持する名分に討ち滅ぼされた。

足利尊氏
 足利氏は遠祖を八幡太郎義家にいただく清和源氏の嫡流である。宿命のライバル新田氏とは初代が八幡太郎義家の三男源義国を共通の父とする異母兄弟であった。だが鎌倉幕府150年の間に、足利氏は幕府の重臣として確保たる地位を築いてきたのに対して、新田氏は上野の一遇の一土豪になり下がってしまった。
 北条氏の中で最大の兵馬を握っているのは足利氏である。鎌倉幕府の戦力の中核をなしている。足利氏は代々北条氏の得宗から妻を迎えており、北条氏とは切っても切れない関係にある。だが一方では足利氏は後醍醐天皇の大覚寺統とつながりがある。足利氏の勢力はその広大な領地に基づいている。この領地を維持するために足利氏初代義康(義国の子)は、当時朝廷の実権を握っていた鳥羽法皇の娘八条院ワ子しょうしに寄進した。足利氏は足利の本領のほかに、陸奥、上野、三河、美作、丹波、丹後等全国にわたって飛び地領を有している。全国領地の割合は朝廷4、北条氏3、足利氏1である。北条領が御家人に再分割されているのに比べて、足利は頭領が握っている。全国の足利領に総動員をかければ、優に北条氏を圧倒する大勢力となる。天皇の娘に名目だけ寄進して、その領地の実際の経営を委任されるという形式を取ったのである。こうしておけば敵の侵略から領地を天皇家が護ってくれる。この八条院領が大覚寺統の後宇多天皇(1274〜1287)に伝わった。したがって足利氏と後醍醐天皇とは地縁によって結ばれているのである。後醍醐の綸旨を受けて鎌倉を裏切り、後に後醍醐を裏切り九州に敗走する際、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れ、大義名分を得た。

新田義貞
 新田義貞は坂東の片隅に決起して風雲に乗じて鎌倉を陥し、上洛して後醍醐に仕え、終始南朝に節を通した。元弘3年(1333)5月8日、新田荘の生品明神に挙兵して以来、燈明寺畷とうみょうじなわて(福井市新田塚町)にその生涯を閉じるまでの5年間は、戦いに次ぐ戦いの日々であった。義貞ほど愚直なまでに後醍醐に尽くした武将はいない。楠木正成が建武の失政にははやばやと後醍醐を見限ったのに対して、義貞は終始後醍醐を信じた。比叡山で後醍醐に欺かれ、北国を流浪している間も、常に後醍醐支援の姿勢は崩さなかった。義貞の壮絶極まる最後は、あまり評判がよくない。将たる者が軽率な出撃をして命を失ったと批判されるが、義貞の心底には、北国を早く平定して都を奪回し、後醍醐を迎えたいという焦りがあったにちがいない。