蘇我氏四代の冤罪を晴らす        遠山美都男著

 720(養老四)年に国家の手で編纂された歴史書、『日本書紀』は、蘇我氏の本家を倒す企ては、中大兄王子と藤原鎌足の二人が中心になり推し進められたと描いている。蝦夷や入鹿は大王の地位を窺い、大王家に取って代わろうとしたので滅ぼされたのだといわれ、それが長く信じられてきた。中大兄皇子(天智天皇)は、みずからの手で入鹿を惨殺し、その野望を完膚なきまでに打ち砕き、蘇我氏によって奪われかけていた王権を無事に取り戻したと認識されていた。天智はまさに王政復古を敢然と断行した英雄的人物と見なされていた。
 天智天皇の諡号しごうは「天命開別あめみことひらかすわけ天皇すめらみことで、「天帝の命令を受けて王朝を開いた高貴な御方」を意味する。天智天皇は蘇我氏から権力を奪還し、王朝を再興した英雄的な天皇と見なされていたことになる。天智天皇は壬申の乱の起きた前年(671年)の12月に近江大津宮で亡くなった。享年46と伝えられる。天智天皇の評価が劇的に変化が生じたのは、没後28年目のことであった。続日本書紀によると699(文武天皇三)年10月、文武天皇は「越智山陵」と「山科山陵」を新たに造営するように命令を下した。「越智山陵」は斉明天皇の墓で、「山科山陵」は天智天皇の墓である。当時17歳だった文武天皇は、祖母にあたる持統太上天皇の後見を受けていたから、この命が持統の指示によるものであったことは想像に難くない。天智天皇の死去した翌年に壬申の乱が起き、後継者に指名した大友皇子が敗れ去ったこともあって、天智天皇の墓は未完のまま放置されていたのである。その天智陵が699年になって、天智天皇の娘で、壬申の乱の勝者、天武天皇の皇后となり、天武没後に即位した持統天皇の指示により、新たに造営されることになった。天智陵は、藤原宮の中枢の建物である大極殿の中軸線をはるか北に延長した、その線上に造られた。このことは天智が中国では天子や皇帝に命令を下して地上世界の支配を委ねる「天帝」に近い存在であると見立てられたことを意味する。天智陵の位置は、天智を「天帝」の命令を受け初代皇帝になった、あるいは王朝を再興した人物という、まったく新たな評価をもとに決定されたことになる。したがって、若き日の天智が入鹿を成敗したのは「王政復古」の実現のためであったという説明が生み出され、定着を見せるようになったのも、やはりその前後のことと考えねばならない。蝦夷や入鹿が王位簒奪を企てたというのがまったくの冤罪であり、その容疑は完全に否定されている。蘇我氏本家はあくまで権力闘争に敗北し、歴史の表舞台から退場したにすぎない。

 642(皇極元)年に百済の義慈王が新羅西部に大攻勢を仕掛け、その結果、旧伽耶地域を奪い取ったことにより、倭国としては鉄資源を主体とする「任那の調」を、新羅に代わり百済を介して入手する経路が確保された。翌年643(皇極二)年には、「任那の調」を担保する人質、余豊璋もやってきた。「任那の調」を投入した大事業が本格的に始動しようとしていた。すなわち、飛鳥寺とその南の飛鳥板蓋宮を中核とした都市空間の建設である。大王権力の象徴たる王都が飛鳥と斑鳩の二つもある必要はない。皇極天皇が山背大兄一族の殺害と斑鳩の殲滅を決断した。その特命が入鹿の手に委ねられたのは当然であった。

 645(皇極四)年6月12日、入鹿は飛鳥板蓋宮で行われる「三韓進調」の儀式に参列して暗殺された。「三韓進調」とは、朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)がそろって倭国の大王に対して貢ぎ物を献ずる儀式である。この儀式において古人大兄皇子が皇極天皇の傍らに侍したことは、外国使節の前で次期大王として披露する場であった。また、「任那の調」が新羅に代わり百済から献上するようになったのが確認するためのセレモニーだった。「三韓進調」という儀式のもつ意義から考えるならば、入鹿暗殺に始まる政変の首謀者は孝徳天皇にほかならない。彼は武力を発動して、大王位と飛鳥の王都建設計画における主導的な役割を手に入れた。
 次期大王を決定する権利は大王である皇極が握っていた。そして、王都建設を企て、それを誰に、任せるかも、すべて皇極の専権事項であったはずだ。とするならば、古人大兄の即位を否定し、王都建設に果たす入鹿の主導的な役割も取り消しにするという決定ができるのは、皇極天皇だけだったことになる。ところが、皇極天皇は、突然の暴力によって古人大兄が王位継承資格を失い、没落していくのを見て見ぬふりをした。少なくとも皇極は、古人大兄をそのように追い込んだ勢力の罪を積極的に問おうとしなかった。また飛鳥の王都建設に重要な位置を占めていた入鹿が目の前で惨殺されたというのに、やはりその下手人の罪を糾弾しようとしなかった。これは、結果的に見て、皇極天皇が古人大兄と入鹿を裏切ったとしか考えられない。軽皇子が事前に、実の姉である皇極天皇に執拗に働きかけ、翻意をうながしたことを想定しないと、古人大兄と入鹿が一挙に既得権を失うというどんでん返しは到底起こらなかった。要するに、乙巳の変とは、皇極・孝徳姉弟の密議、共謀によって起こされたものだった。