謎の豪族 蘇我氏        水谷千秋著

 六世紀半ば近く、蘇我稲目が宣化天皇の即位に際し、初めて大臣に任命された。当時、大伴金村と物部麁鹿火あらかいが大和政権の執政官たる大連の地位にあったが、これとならぶ地位に稲目が新たに加わった。これが、蘇我氏躍進の始まりである。とくに蘇我馬子は敏達・用明・崇峻・推古と四朝に大臣として仕えた。

 蘇我氏が台頭した契機のひとつに、彼等が朝廷の財政を担当し、大きな功績をあげていた。『古語拾遺』雄略天皇段には、蘇我麻智宿禰まちすくね三蔵みつのくら斎蔵いみくら内蔵うちつくら・大蔵)の検校(管理・監督)を任されたという伝承が記されている。斎蔵いみくらとは神宝や祭器を収めた倉、内蔵うちつくらとは朝鮮諸国からの貢納物を収めた倉、大蔵とは国内からの貢納物を納めた倉とされている。雄略朝に、蘇我氏がこれら三種類の倉の管理を任されたというのである。
 蘇我氏は配下の渡来人を駆使して全国の屯倉を拡大するのに大きな働きがあり、これによって大和政権の勢力拡大に多大なる貢献を果たした。蘇我氏の配下にいた渡来人のなかでも代表的なのが、倭漢氏やまとのあやうじ鞍作氏くらつくりし、それに王仁わに(漢高祖の末裔、四世紀末、百済から渡来し漢字と儒教を伝えた)や王辰爾おうじんに(六世紀中ごろの百済からの今来いまきの渡来人、船氏 の祖)の後裔を称する中・南河内諸豪族(西文氏かわちのふみうじ葛井氏ふじいし船氏ふなし津氏つし)であった。倭漢氏やまとのあやうじ氏は軍事と土木・建築、鞍作氏くらつくりしは仏教と仏像製作、王仁わに後裔氏族は実務官僚に能力を発揮した。彼らの多くは文字(漢字)を使いこなすことによって、同時期の倭人の豪族たちにはとうてい望みえない、高度な行政実務能力を発揮することができた。また彼らは仏教受容に積極的であったし、仏教以外の大陸諸文明の導入にも主導的な役割を果たした。蘇我氏はこれといった軍事的な基盤が存在しない。蘇我氏は、官僚的な性格が強かった。しかも彼らは自分自身が官僚的であるに留まらず、大和政権に参画する中央豪族すべてを国家のために働く官僚に再編していこうとしていた。それが冠位十二階である。この制度の趣旨が、官僚制度を推進していくために出身氏族や姓にこだわらず、個人の功績や能力によって人材を登用しようとしたものである。

 蘇我稲目の時代、娘の小姉君おあねのきみ堅塩媛きたしひめを欽明天皇に嫁がせた。その結果、小姉君おあねのきみが五人、堅塩媛きたしひめが十三人の子どもを産み、稲目を外祖父にもつ皇子・皇女は全部で十八人生まれた。このなかから用明・崇峻・推古の三人の大王(天皇)が生まれた。本来、大王と婚姻関係が結べるのは、葛城氏や和邇わに氏、息長おきなが氏といった臣姓や君姓の豪族に限られており、いくら実力があっても大伴氏や物部氏のような連姓の豪族から妃が出るのはむずかしいことだった。この点、臣姓ではあってもほとんど新興豪族といってよい蘇我氏がどういう経緯で欽明に二人の后妃を入れることができたのか、謎として残されている。

 推古朝という時代のイメージは聖徳太子(厩戸皇子)が政治の中心であり、彼によって十七条憲法・冠位十二階・遣隋使派遣といった新しい政策が実行された時代であった。一方、蘇我馬子は聖徳太子の改革に邪魔する抵抗勢力であり、聖徳太子は晩年には蘇我馬子との権力抗争に疲れ果て世を厭うようになり、やがて仏教に救いを求めていく。聖徳太子と蘇我馬子の対立という図式の理解である。
 しかし、権力の頂点に位置したのは、推古天皇と馬子のコンビであって、このふたりによって登用された、青年宰相が厩戸皇子だったという推測の方が妥当ではないだろうか。この時代、厩戸皇子の主導で種々の新しい政策が行われたのは事実としても、あくまで推古・馬子の庇護・承認の下で実行されたものとみるべきではないだろうか。馬子と推古は叔父と姪の間柄になる。公的にはもちろん推古天皇のほうが目上であるが、彼女は叔父を信頼し、その意見を他の誰よりも信頼していた。厩戸皇子は馬子の孫であり、娘婿でもあった。馬子は、厩戸皇子の非凡な才能に期待し、少年のころから目をかけていたのであろう。順調に成長した厩戸皇子は、推古と馬子、二人の庇護の下、政治家として手腕を発揮し、特にその学識を生かして、十七条憲法・冠位十二階・遣隋使派遣といった文明化政策を推進した。
 推古が本来後継者に考えていたのは実子の竹田皇子であって、即位後数年ののちに竹田皇子を皇太子に立て折を見て王位を譲るつもりだったが、その意に反して竹田皇子は数年ののちに夭折してしまい、そこでやむお得ず厩戸皇子を立太子した。しかし推古は竹田皇子のことが忘れられず、結局厩戸皇子に王位を譲る気持ちになれなかったのではないか。要するに推古天皇は当初は生前譲位を前提とする中継ぎの天皇であったが、結果的には厩戸皇子に譲位することなく終身の天皇になった。推古の治世は、始まりこそ崇峻の粛清という異常事態をうけての中継ぎ的な即位であったが、推古・馬子ラインの政権運営が次第に安定化した結果、本格的な大王として長期の在位が可能になった。