進化考古学の大冒険        松本武彦著

 人類初期の数百万年は、地上を歩きまわって屍肉や骨、果実や野草をあさる生活が続いたと考えられる。こういう生活が、長距離移動に適した身体および歩行様式と、有効に移動するためのナヴィゲーション能力にすぐれた大脳を進化させた。屍肉や食用植物は広い範囲に散らばっていて、たまには思いがけない幸運があったとしても、一ヶ所でたくさんの人数を安定して養えるような資源の集中はなかっただろう。したがって、多くても数十人の、もっぱら血縁で結ばれたさまざまな集団が、それぞれ移動を繰り返しながら採食した様子を想像するほかない。

 遅くとも20万年ほど前までには、ヒトの採食様式のなかで、狩猟が大きな比重を占めるようになった。ヒトは狩りに必要な走力や攻撃力まったく発達させなかったばかりか、そういう要素は逆に後退した。これを補って狩猟の成功度高めたのは、大きくなった脳と、それが作り出した高度な道具だった。大きくなった脳は、狩猟においては、経験をもとに動物の行動を読み、待ち伏せ、最良の場所から獲物を狙う記憶力や思考力を高めた。また、進化の過程で弱くなった身体的攻撃力の代わりに、ヒトは槍や投槍などの武器を使用しはじめた。
 狩猟は、獲物の待ち伏せや追跡、追い込み、攻撃、殺し、解体、加工などといった、性質の異なるいくつもの仕事の場面の起伏にとんだ連続から成り立っていて、強いストーリー性がある。個人の能力や特性によって、誰がどの場面を担当するかで狩りの成功率が異なってくるから、それによって個人ごとに担当する仕事の場面が決まるようになったと考えられる。動きが激しく、スリリングで命の危険をともなう攻撃や殺しは、狩猟という一連のストーリーの山場をなす「見せ場」として、より特別な価値を与えられるようになったにちがいない。見せ場の仕事は、身体能力や知略をとくに必要とするだけに、それを担当する集群(おそらくは青年男性)のなかでも、うまくできる人とそうでない人との違いが出てくる。抜群にうまくできる人は、同じ仕事をする同性からから心服や威信を得て、リーダーとしての地位を得るようになるだろう。同時に、異性からの好意を集めて、配偶の機会を増やすことにつながった可能性もある。狩猟という行為が中心に置かれるようになることによって、採食活動は、単に糧を得るための経済的行為から、それに加えてさまざまなコミュニケーションや感情の交換の手段としての機能もあわせもつ、複雑な社会的行為へと変わったのである。スリルやストーリーを好む心やそれを仕事に見出して楽しみ、仕事を通じて自己主張する性向も、この段階に私たちに刻み込まれたのだろう。

 植物の炭水化物を主とする採食様式は氷期から間氷期へという、環境変化の産物である。紀元前1万8000〜1万7000年ごろに始まった平均気温の上昇によって、地球は温暖な時代を迎えた。この気候変化のなかで、それまでに食料源となってきた大型動物が絶滅したり高緯度地方に去ったりして、狩猟の実入りは減っただろう。その代わりに、温暖化によってそこここで繁茂し、高緯度へも進出しはじめたさまざまな植物に、より多くの食料資源を頼るようになった。のちの栽培穀物の先祖となる、でんぷん質をたくさん含んだ植物の種子、豆類、根茎類、堅果類などの採集が、細った狩猟の埋め合わせをするように本格化していったらしい。場所によっては紀元前1万年ごろから、のちの本格的な農耕につながるような植物栽培が始まった。メソポタミアの小麦栽培、当時まだ砂漠化していなかった北アフリカ・サハラの雑穀栽培、中国・長江流域のイネ栽培などだ。落葉広葉樹林や照葉樹林に覆われた山がちの日本列島では、そこに実るクリやドングリなどの堅果類が、炭水化物のおもな供給源となった。これが縄文時代の始まりである。植物の炭水化物に栄養源の多くを頼り、その生育場所などを注意深く保全しながら、しかし人工的な環境を作って栽培するまでにはいたらない縄文の植物採食は、しばしば「植物管理」などとよばれる。

 単なる植物管理だったものが本格的な栽培に移行したり、初期の植物栽培がさらに集約化されたりしだしたのは、紀元前6000〜5000年のころだ。氷期が終わって温暖化が進んだあと、一時的に寒さが戻った時期である。紀元前1000年ごろまでこの寒冷期は続いた。寒冷化と、それにともなう乾燥によって実りが少なくなった植物を、人々は何とか人工的な環境に囲い込んで収穫量を保とうとする。こうして生育を完全にコントロールしていくと、もとの野生種とはしだいに形質が遠ざかり、食用により適した栽培種へと変化することがある。「農耕」とは、こうしてできた単一の栽培種を特定の耕地で集中的に育て、毎年の収穫を得るようになったものをさす。たとえ栽培種を含んでいても、いくつもの種をひとところで雑多に栽培するものは、「園耕」とよんで区別される。寒冷化という危機にによって、人びとの植物に対する管理が強まり、野生種から栽培種へ、植物管理から園耕へ、そして農耕へと、植物性炭水化物の集中採食の方式が練り上げられていった。
 東アジアでは、中国の北部では雑穀栽培が、南部の長江流域などでは水稲農耕が始まった。北部の雑穀栽培は、寒冷化が進んだ縄文の後期から晩期、遅くとも紀元前2000年ごろから1000年ごろにかけて朝鮮半島経由で日本列島に広がり、園耕として西日本の集団に取り入れられていった可能性が高い。その後、中国南部に起源する水稲農耕が、直接的に朝鮮半島から北部九州にもたらされ、先に伝わっていた園耕とともに東のほうへ広がっていったようだ。日本列島における本格的な農耕の確立で、これが弥生時代の始まりとされる。