新・堕落論 我欲と天罰 石原慎太郎著
先進国にはそれぞれいわば国是ともいうべき、国民の意志を標榜する理想を謳った価値観を表現する言葉があります。フランスはかつての革命で謳われた「自由、平等、博愛」です。アメリカの場合は、「自由」です。だからあの国にはアメリカン・ドリームがあると同時に著しい格差、差別があり得る。ならば現代の日本では何だろうか。国民が追い求め、政治もそれに迎合してかなえ、助長している価値、目的とはしょせん国民の我欲でしかない。その我欲を分析すれば、金銭欲、物欲、性欲です。この追及にこれほど熱心な国民は世界にいないでしょう。ある人にいわせれば、それをさらに具体的に表象するものは、温泉、グルメ(美食)、そしてお笑いだそうな。いわれてみれば昨今のテレビ番組の中での、温泉案内、料理番組、美食ガイド、そしてくだらぬお笑い番組の氾濫にはうんざりさせられます。しかし我欲がのさばってくると、これは始末におえません。死んだ親の弔いもせずに遺体を放置したまま、その年金を搾取する家族に始まって、高値のブランド製品に憧れてそれ欲しさに売春までする若い女の子。新しい同棲相手の男に媚びて、先夫との間に出来た子供をいびり殺してはばからない若い母親。消費税を含めていかなる増税にも反対してごねる国民。消費税のアップなしに、この国のここまできてしまった財政がもつ訳がない。国家予算の国債への依存率をみても、総じて国家の借金をみても、現在の日本ならEUには加盟出来ないでしょう。この国の財政の危うさは容易に理解できるでしょうが、こと消費税率の問題になるとたちまちNOということでしかない。
トインビーはその著書『歴史の研究』の中で歴史の原理について明快にのべています。「いついかなる大国も必ず衰微するし、滅亡もする。その要因はさまざまであるが、それに気づくことで対処すれば、多くの要因は克服され得る。しかしもっとも厄介な、滅亡に繋がりかねぬ衰微の要因は、自らに関わる重要な事項について自らが決定できぬようになることだ」と。これはそのまま今日の日本の姿に当てはまります。果たして日本は日本自身の重要な事柄についてアメリカの意向を伺わずに、あくまで自らの判断でことを決めてきたことがあったのだろうか。これは国家の堕落に他ならない。そんな国家の中で、国民もまた堕落したのです。ものごとの決断、決定にはそれを遂行獲得するための強い意志が要る。意志はただの願望や期待とは違う。その意志の成就のためにはさまざまな抑制や、犠牲をさえ伴う。現在の多くの日本人の人生、生活を占めているのは物神的な物欲、金銭欲でしかない。それはただ衝動的な、人間として薄っぺらな感情でしかない。そして日本の今の政治はひたすらそれに媚びるしかない。それもまた政治家としての堕落に他ならない。そうした堕落の構造の中で国家は、周りから軽侮のうちにいたずらに衰微し沈没していくのです。我々は今その大きな渦巻の中にいるのです。
日本人は世界で未曽有の原爆体験をしたせいで、こと原子力に関しては強いトラウマを抱えています。それはこと戦略のための原子力使用にせよ、産業のためのエネルギー使用にせよ、原子力という名がつくだけで思わず身構えてしまう節がある。しかし現実に国家の利益を左右する交渉の背景に、実は、今では使われる可能性のほとんどない核兵器の保有が巧妙に使われている皮肉な実態への不認識。核の保有は、経済、軍事を含めた有効な外交のために必要なインフラです。あるいは地球の温暖化が進み人類の存在そのものが危機にさらされている今なのに、今回の東日本の大災害で福島の原発が破綻すると、すぐに原発廃絶という声が高らかに起こってくるヒステリックな現状。そして政治はすぐにそれに媚びて、太陽エネルギーなどえの大転換を謳い上げてみせるが、もう少し腰を据えて我々を取り囲む状況の実態を見据えたらいい。そんな、効率の悪いエネルギーで、北欧諸国のようなコンパクトな国ならともかく、日本のような巨大な産業経済社会がまかなえるものではありはしません。原子力発電は、要は管理の問題なのに、その次元での反省や努力も無しに原子力という人類にとって画期的な技術を、管理を含めて自らのために完璧にものにすることなしに廃棄するのは愚かなことでしかない。
尖閣問題はさらに今後過熱化され、日本、アメリカ、中国三者の関わりを占う鍵となるに違いない。要はアメリカは本気で日米安保を発動してまで協力して尖閣を守るかどうか。守るまい、守れはしまい。ヒラリー国務長官は日米安保条約を発動してもアメリカは尖閣を守ると見えを切りはしたが、他の政府高官クローリーが日本に強く伝えた本音は、冷静に対処せよ、つまりあまりつっぱってアメリカを巻き込むなということだった。そして政府は三権分立の原則を敢えて無視し、一地方検事の政治的判断ということで責任転嫁し侵犯の犯人を釈放してしまった。尖閣諸島への中国の侵犯に見られる露骨な覇権主義が、チベットやモンゴルと同様、まぎれもなくこの国に及ぼうとしているのに最低限必要な措置としての自衛隊の現地駐留も行わずに、ただアメリカの高官の「尖閣は守ってやる」という言葉だけを信じて無為のままにいるこんな国に、実は日米安保条約は適応され得ないということは、安保条約の第五条を読めばわかることなのに。アメリカが日米安保にのっとって日本を守る義務は、日本の行政権及ぶ所に軍事紛争が起こった時に限られているのです。
もともと尖閣諸島に関する日中間の紛争についてアメリカは極めて冷淡で、中国や台湾がこれらの島々の領有権について沖縄返還後横槍をいれてきたので、日本はハーグの国際司法裁判所に提訴しようとアメリカに協力を申し入れたのに、アメリカは、確かに尖閣を含めて沖縄の行政権を正式に日本に返還したが、沖縄がいずれの国の領土かということに関して我々は責任を持たないと通告してきています。
コンラッド・ローレンツはその動物行動学論の中で「幼い時期に肉体的苦痛を味わうことの無かった人間は長じて必ず不幸な人間になる」といっています。これは大脳生理学での脳幹論の原理であって、脳で最重要とされる脳幹は充実した人生のために不可欠な怒り、悲しみ、恐怖、発奮努力、そしてその結果の充実感、歓喜といった感情の源泉に他なりません。これらの感情が自然に発露して初めて人間は人間として平衡のとれた正常な人生を謳歌できます。若者たちが過大な情報に頼り溺れるために青春の特質である挫折、失敗を経験し得ない。つまり「こらえ性」の欠如であって、世間に出ても他者との摩擦、相剋に見舞われるとそれを跳ね返す強い個性に依る自我が備えられていないから人生の落伍者となる。そうした劣弱な人間をいかに鍛えなおし、確かな自我を備えさせるかが問題です。そして日本の衰弱が敗戦から今日までの心身ともにアメリカへの余りに一方的に依存による、国全体の自我の喪失によってもたらされたことを知るならば、その克服のためにあらゆる具体的な手立てを講じなければなりません。国家社会を健全に運営していくために不可欠な人間相互の連帯の獲得こそが国家再生の鍵となるのです。国家の耐性、国としてのこらえ性とは、国のある目的にのために国民全体が我慢するということ。それはさまざまな自己犠牲、すなわち節約であり奉仕でもあります。アメリカへの依存によって保たれてきた平和などではなしに、自らの努力、自らのこらえ性によって形成されていく本物の「平和」と安全の確立をこそ求めて努力しなくてはならないのです。