世界を不幸にするアメリカの戦争経済イラク戦費3兆ドルの衝撃 
                
ジョセフ・E・スティグリッツ リンダ・ビルムズ著 楡井浩一訳

 イラク開戦の決断は、数々のまちがった前提にもとづいていた。ある者は、サダム・フセインがあの忌まわしい9.11同時多発テロにかかわっていたと断言した。誤った情報によって、イラクが大量破壊兵器を所有しているという主張がなされ、国際原子力機構(IAEA)の査察官による否定は無視された。多くの人は、戦争はすぐに終わり、イラクにはなんらかの形で民主主義が花開くだろうと論じた。戦争にはほとんど費用はかかわらず、おのずと採算がとれるだろうという意見まであった。ところが実際には、戦争は生命と財産の両面で、驚くほど高くつくことになった。アメリカに課される財政的および経済的コストの総額は約3兆ドルに達し、他の国々に課されるコストを合わせれば、おそらく数字の2倍になるだろう。

 2003年3月19日、アメリカと有志連合はイラクを侵攻した。政策を立案した新保守主義者(ネオコン)にとって、イラクは手始めにすぎなかった。彼らの目的は、新しい民主的な中東国家をつくり、ゆくゆくはイスラエルとパレスチナの恒久的な平和を達成することだった。それなのに、この5年間でイラクにはなんの進展も見られない。イラク自体が内戦状態におちいってしまっただけでなく、他の地域もさらに不安定になってしまった。アメリカに対する反感は中東では誰の目にも明らかであり、それは世界じゅうへ広がりつつある。

 戦費を押し上げる第一の要因は、アメリカ軍兵士と民間の請負兵両方の人件費の上昇だ。配置される兵士の平均人数はわずかに増えているだけだが、兵士ひとり当たりのコストが大幅に上昇している。第二の要因は、燃料費の上昇だ。イラクに供給される燃料の価格は、長く危険な供給ラインの高額な輸送コストにあおられ、急上昇した。戦費が増大した要因のうち、最も重要なのは、軍の装備品の在庫が消耗し、作戦の長期化によって、国防総省が当初無視していた装備品の購入を余儀なくされたことだ。

 イラクとアフガニスタンにおける戦争のコストを二つのシナリオにもとづいて見積もっている。ひとつは、最良のシナリオとでも呼ぶべきもので、アメリカが撤退速度、死傷者の程度、退役軍人の要求などについて最も楽観的に予見し、戦争によって生じるコストを最小限にしている。最良のシナリオでは、2008年に18万人まで減少し、2010年までに7万5千人、2012年までに戦闘部隊はすべて撤退させ、非戦闘部隊の数は5万5千人に減少すると見積もっている。2017年までの兵員の数は合計180万人になると推定している。
 第二のシナリオは、現実寄りの保守的シナリオで、現役部隊のの配備がもっと長期間続き、帰還兵たちの医療と障害保障請求の必要性がさらに高まるという予測にもとずいている。ここでは兵員数は、もっとゆるやかに減っていき、2012年までに7万5千人になると想定している。2017年までの兵員の数は合計210万人となると推定する。

イラク戦争及びアフガニスタン侵攻のコストの現在高 単位:10億ドル
財政的コスト 最良シナリオ 現実寄りの保守的なシナリオ
今日までの総運用費(2001−2007) 646 646
将来の運用費 521 913
将来の退役軍人のコスト(医療+障害補償+社会保障) 422 717
その他の軍事費/調整 132 404
財政的コスト合計(利息なし) 1,721 2,680
利息コスト 613 816
財政的コスト合計(利息あり) 2,334 3,496
社会的コスト 最良シナリオ 現実寄りの保守的なシナリオ
統計的生命価値 死亡 56 64
統計的障害価値 その他の全障害 180 273
社会、家族、その他の医療費 55 78
(適用された障害給付金の差引) −12 −16
その他の社会的コスト 16 16
社会的コスト合計 295 415
マクロ経済的コスト 最良シナリオ 現実寄りの保守的なシナリオ
原油高の影響 187 800
支出転換の影響 1,100
マクロ経済的コスト合計 187 1,900
財政的コスト+社会的コスト+マクロ経済的コスト
(利息なし)
2,203 4,995

 イラク戦争は、とりわけ原油高の影響は、アメリカ経済を弱体化させてきたが、金融緩和の政策がとられたために、ほんとうの弱り具合はなかなか目には見えなかった。金利と貸出基準の引き下げがなければ、イラク戦費への支出転換と、赤字拡大と、原油高からもたらされるマクロ経済的悪影響が、もっと目に見える形で表出していたはずだ。イラク戦争勃発以降、アメリカは赤字国債で資金を調達することによって、過去五年間、戦争の財政的コストの一部を負担せずにすませてきた。さらに、戦争のマクロ経済的コストの一部も負担していない。先送りしたコストを、これから支払っていかなければならない。かってベトナム戦争時にジョンソン大統領は軍事・民生両立政策をとった。そして、アメリカ国民はこのときの大きなつけを、1970年代のインフレという形で、戦後の長きにわたって支払いつづけるはめにおちいった。あの時と同じように、二一世紀の軍事・民生両立政策による大きなつけも、長きにわたって国民を苦しめつづけることだろう。もしも、石油価格が低水準で推移し、政府支出が通常の景気刺激策に振り向けられ、アメリカ経済の弱体化をまぬがれていたなら、FRBが大幅な金利引き下げを行う必要はなかったし、国民に無理な住宅ローンを背負わせてまで、なりふりかまわず消費を拡大させる必要性もなかった。借金の山が今ほど大きくなければ、アメリカ経済はもっと有利な立場で、将来の困難に取り組めたはずなのだ。