日本の戦争         田原総一朗著

日清戦争(1894〜1895)

 1894年(明治27年)2月、朝鮮の全羅道で農民たちの反乱が起き、やがて全羅道の首都全州を支配化に収める東学党(儒教、仏教、そして民間信仰を取り入れた新興宗教)の乱が発生した。そこで、朝鮮の国王の高宗と閔妃(びんひ)一族は、東学党の反乱がさらに全国的に及ぶことを恐れ、6月に清国の袁世凱(えんせいがい)に清国軍の派遣と反乱の鎮圧を要請した。袁世凱の軍隊約2500人が朝鮮に入ったために、このままでは朝鮮は完全に清国の支配下に置かれると思い、7000人の日本軍が朝鮮に派遣されたが、すでに東学党の乱は鎮圧され、日清両軍が朝鮮に滞留している理由はなくなってしまった。7月23日、日本軍は朝鮮で国王高宗の実父である大院君を担ぎ出しクーデターに成功し、大院君に清軍の駆逐を日本軍に依頼する、といわせた。8月1日、日本が清国に宣戦布告した。日清戦争では、日本は連戦連勝であった。東洋の小国の予想外の頑張りに、日本という国を一斉に見直しはじめる契機となった。日本軍が黄河海戦で勝利し、旅順をほぼ制圧し、さらに山東半島に上陸し、威海衛を完全に包囲したところで、アメリカが調停に乗り出した。開戦、5ヶ月目、下関での講和条約調印となった。清国から遼東半島、台湾、澎湖島(ほうことう)を割譲したが、ロシア、フランス、ドイツの三国が、講和条約の実施に待ったをかけてきた(三国干渉)。遼東半島の放棄を要求され、遼東半島はドイツ、フランス、ロシア、イギリスの租借地となった。

日露戦争(1904〜1905)

 1899年(明治32年)義和団と称する宗教的グループが、中国・山東省で民衆を巻き込んで決起し、1900年(明治33年)6月には北京を包囲した。列強は軍船を集めて、北京に進撃したのだが、弾丸が当たっても死なないと信じている義和団軍はおそろしく勇敢で、列強連合軍は立ち往生した。清国の西太后は、義和団を利用して外国勢力を追い払えるのではないかと考え、6月20日、列強に対して実質的な宣戦布告をした(北清事変)。北清事変は、連合国が圧勝し、清国は列強に駐兵権を認めさせられて、事実上半植民地と化して終わった。北清事変が終わると列強各国は、派遣した軍隊をそれぞれ撤退させたのだが、ロシアだけは満州に居座った。列強、とくにイギリスは、ロシアの影響力が清国まで広まるのを恐れ、日本はまた、ロシアが、満州から朝鮮半島に進出して来るのを強く恐れた。そしてこの共通するロシアに対する恐れが、1902年(明治35年)1月の日英同盟となるのである。

 日本のロシアに対する宣戦布告は1904年(明治37年)2月10日であった。日露戦争で、日本が勝利を手中にしたのは、1905年(明治38年)3月10日の奉天の会戦と、5月27日の日本海海戦で勝ったためだが、アメリカのルーズベルト大統領が講和の斡旋に入った。ロシア皇帝ニコライ二世は、日本に対する敗北意識はなかったが、ロシア革命のため講和の斡旋を受け入れた。ポーツマスで、全権大使・小村寿太郎は交渉に苦労し、本当に勝ったと思い込み、過大な戦利の獲得を期待していた国民の大不満を買ってしまった。

太平洋戦争(1941〜1945)

Image1.gif (868 バイト)1939年(昭和14年)5月、ノモンハン事件が起きた。日本は、日露戦争に勝ったためにソ連の軍事力をあまく見ていたのだが、機械化、科学化したソ連軍にここで壊滅的な打撃を受けた。投入した兵の32%が戦士、36%が負傷した。日本軍は、軍の充実・拡張といえば師団数の増加しか考えて来なかった誤りをいやというほど思い知らされた。

Image1.gif (868 バイト)1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻し、9月3日には、イギリス、フランスが対独として参戦し、第二次大戦が始まった。

Image1.gif (868 バイト)1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国同盟が成立した。

Image1.gif (868 バイト)1941年(昭和16年)6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻して、独ソ戦争が始まった。東条陸相は対ソ戦に慎重だった。日本陸軍は49個師団の兵力があるが、そのうち27個師団を中国戦線に投入している。対ソ戦を行うには、27個師団を大幅に減らしてソ連攻略に向けなければならないが、蒋介石政府との和平が成立しない限り、現実には無理だという意見だった。

Image1.gif (868 バイト)1941年(昭和16年)7月25日、日本は南部仏印の進駐を発表した。

Image1.gif (868 バイト)1941年(昭和16年)8月1日、アメリカが日本に対する石油の全面輸出禁止を発表した。日本の石油は8割をアメリカに、2割を蘭印やボルネオに依存していた。この時点で、日本の石油貯蔵量は、1年半しかもたないことがはっきりした。

Image1.gif (868 バイト)アメリカが日米交渉に本気だったのは、ヒトラーのドイツがソ連を打ちのめし、アメリカが日独の両国と戦う破目になるのを避けたいと考えていた時期までだった。だが、9月上旬に、国防省が独ソ戦は最終的にはソ連が勝利するという分析を大統領に報告し、となると対独戦の恐れはなくなり、アメリカにとって、日本との戦争を避ける理由は消えたのである。悲しむべきことに、日本側は独ソ戦の情勢変化も、アメリカの姿勢の変化も全くつかんでいなかった。

Image1.gif (868 バイト)10月18日東条内閣が発足した。軍人たちはもちろん、マスコミも世論も日本国中、対米戦争を熱望するエネルギーに満ちあふれ、誰もが対米戦突入のために、陸相の東条が首相になったのだと思い込んでいた。

Image1.gif (868 バイト)アメリカ側は、東京とワシントンとの暗号電報のやりとりを全て解読し、交渉と戦争の両面戦略が筒抜けになっていた。それに対して、日本側は、アメリカの戦争準備の進み方、そして何よりもアメリカ政府の本心を読む何の術も持っていなかったのである。

Image1.gif (868 バイト)中国、仏印からの全面撤兵を記された「ハル・ノート」がアメリカの最後通牒であることが確認されて、12月1日の御前会議で開戦が12月8日と決まった。

Image1.gif (868 バイト)日本政府のアメリカに対する宣戦布告が、在米大使館の翻訳の遅れで、ハルに渡されたのが真珠湾攻撃の1時間後になってしまい、真珠湾攻撃はだまし討ちであり、日本は卑怯で卑劣な国として烙印を押されることになった。アメリカ側は、もちろん暗号解読で真珠湾攻撃の半日前には戦争通告の内容を知っていながら、だまされたふりをしたのである。そのためにアメリカ国民の闘争心はいやがうえにも燃え上がった。