日本古代史と応神天皇        直木孝次郎著

 本書は主として四世紀末から五世紀始めにかけて在位した神武からかぞえて十五代目の応神を中心に、日本古代の天皇の地位や権力について述べている。『記・紀』の語るところを顧みると、倭国の歴史は神武の即位から第二の神代にはいるが、崇神朝には四道将軍を諸方面に派遣して境域をひろげ、税制を整え、成務朝には国郡には国造を立て、県邑(あがたむら)には県主などを置いて地方制度を固めたという。こうして国家の体制を確立して、第二の神代、あるいは神代の過渡期が終わり、応神天皇から新しい人の世がはじまる。応神は、神代がまったく終わって新しい時代のはじまる初代の天皇である。応神は形の上では仲哀の子であるが、実際は神の子であるという考えが早くから存在した。応神は、系譜の上では父にあたる仲哀は、海の彼方の国を討てという神の託宣に従わなかったため、神の怒りにふれて死に、その妻の神功皇后が神の託宣通り新羅を討って、これを従え、筑紫に帰って生んだのが応神である。応神は神功に下った神の子と信じられていた。人の子ではなく神の子であるということは、国の始めの王(始祖王)の重要な条件である。応神は新しい政権である河内政権の始祖たる資格をもつものである。

 四世紀の末ごろ、天皇の宮は大和から河内に移され、それより二、三代にわたって河内に王宮がおかれた。応神の難波大隅宮、仁徳の難波高津宮、仁徳の皇子、反正天皇の河内丹比柴離宮(たじひしばがきのみや)がこれである。反正の兄の履中天皇は仁徳の没後、難波宮で即位の儀礼の一部である大嘗(おおにえ)の後の豊明(とよのあかり)(宴会)をすまして寝たところ、弟の墨江中王(すみのえのなかつみこ)の反乱が起こり、履中は難波宮から大和にのがれ、石上神社に移ったと『古事記』に見える。のち伊波礼(いわれ)の若桜宮にいた。『宋書』には、421年(永初二年)に倭王の讃が宋に遣使朝貢し、讃の死んだ後弟の珍が宋に朝貢したとあり、珍を履中にあてる説があるが、履中は河内から大和へ逃亡しているのだから、履中ではなく、履中の弟の反正とするのが妥当であろう。

 この時期の特色としてめだつのは、大阪平野南部の古市と百舌鳥に大和に造営されていた古墳を超える巨大な古墳が造営されたことであろう。三、四世紀の大和政権は、四世紀末に滅び、新しい政権が河内に興る。これがいわゆる河内政権論で、政権を握る天皇の血統も、大和政権のそれは滅び、新しい天皇(大王)家が出現すると考える。

 河内は海を通じて発展し、政治的には大和に従属している時代でも、文化的には大和を凌駕している面があった。それを示すのが海人(あま)・海部(あまべ)の活動で『記・紀』には、四世紀末から五世紀前半にかけて海人・海部の動きが記されている。海人は海部とほぼ同意で、海を生活の舞台とし、多くは政権の首長に従属して漁業や航海を仕事とする人たちである。河内政権は海人の力を利用して発展したと考えられる。倭の王権を構成する諸豪族のうち、四世紀末まで最も強力であった大和の諸豪族の盟主の力は、高句麗との交戦に敗れて勢力を低下したのに対し、河内の豪族の支配下にある海人を主体とする軍は、高句麗に対し最後の勝利を得るところまでは行かなかったが、平壌近くの帯方に攻め入るなど、めざましく活動した。うち続く敗戦で倭王権の動揺するなか、倭王権を構成する豪族のうち、海人を率いる河内の豪族は勢力を高め、河内に新しい王権を樹立する機会をつかんだのではないだろうか。五世紀前半の河内の豪族が大和の豪族を超える武力を有していたことは、古墳の副葬品に鉄製武器の多いことで明らかである。

 五世紀中ごろはほぼ古墳時代中期中ごろに当たるが、その頃を境として、それまでは大王の権勢の強大を示すシンボルとして仰がれた古墳が小さくなるのである。古墳の大きさが権力のシンボルでなくなる。新しい権力・権威のシンボルとなるのは、五世紀前半ごろから整い始めた官司・官職の制ではないだろうか。そして五世紀のなかごろには、その制度の頂点に立つものが最高の権力者=大王であるという認識が一般化したと思われる。そうして官司・官職の制は、百済や中国の制に見習うところが大きかったのであろうから、倭国内だけに通用するものではなく、国際的にも認められるようになったのであろう。そうなってくると、国際的には権力の指標にならない古墳の大きさは問題にならなくなる。倭国の王は自分の地位を保つのに、もはや古墳の立派さに頼る必要はなくなった。宋への朝貢のための費用は大きくなったであろうが、民衆から収奪する租税・力役を巨大古墳造営のために消費せず、国力の増強や官制の整備、さらには国土拡張のための武力の強化にふりむけることができるようになった。



兵部少輔(ひゃうぶのせうふ)の任にある大伴家持(718年頃 -785年)が、諸国から防人たちの集う難波の繁栄を大昔からのものとして讃えた歌。

大伴家持は、天平勝宝六年(754)四月には兵部少輔となり、翌年の天平勝宝七年(755)二月には大伴家持は防人交替の事務のため難波に派遣された。東国から徴集された防人たちは、難波で検閲を受けたのち難波津から船で筑紫へ送られるのだが、東国の民謡や歌に関心を持っていた家持は、各国の防人役人に命じて防人たちに歌を進上させた。 このようにして、100余首に及ぶ防人の歌が万葉集の末尾に異彩を放つこととなった。

万葉集 巻第二十


私(ひそ)かなる拙懐(せつくわい)を陳(の)ぶる一首 并(あは)せて短歌

4360

すめろきの 遠き御代(みよ)にも おしてる 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひつつ

かけまくも あやに畏(かしこ)し 神ながら 我(わ)ご大君(おおきみ)の うち靡(なび)く 春の初めは

八千種(やちくさ)に 花咲きにほひ 山見れば 見のともしく 川見れば 見のさやけく ものごとに

栄ゆる時と 見したまひ 明らめたまひ 敷きませる 難波の宮は きこしおす 四方(よも)の国より 奉る

御調(みつき)の舟は 堀江より 水脈(みを)引(び)きしつつ 朝なぎに 楫(かぢ)引き上り 夕潮に 棹(さを)さし下り

あぢ群(むら)の 騒ぎ競いて 浜に出でて 海原見れば 白波の 八重をるが上に 海人(あま)小舟

はららに浮きて 大御食(みけ)に 仕えまつると をちこちに 漁(いざ)り釣りけり そきだくも おぎろなきかも

こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも


4361

桜花 今盛りなり 難波の海 おしてる宮に きこしめすなへ

4362

海原の ゆたけき見つつ 葦が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ

右は、二月の十三日、兵部小輔大伴宿禰家持。


(口語訳)

4360

代々の天皇が、その遠い昔の御代にも、照り輝くこの難波の国で天下をお治めになったと、今の世まで絶えることなくずっと言い伝えられているが、口の端にかけるのも何とも恐れ多いこととはいえ、神さながらにわが大君が、春の初めはとりどりに花が咲き誇り、山を見ると見るからに心ひかれ、川を見るとみるからにすがすがしくて、物それぞれに栄誇る時だと、しかと御覧になって、晴れ晴れとした御心でお造りになった難波の宮、この宮に向かって、お治めになっている四方の国々から献上する貢ぎ物を積んだ舟が、堀江から水脈を後に引きつつ懸命に、朝なぎには櫂を操って遡って来、夕潮時には棹を操って下って来て、味鴨の群れのように騒ぎ立てながら先を争って浜に出て海原を眺めると、白波が幾重にも重なって寄せる海の上に、海人の小舟があっちにもこっちにも浮かんで、御膳に差し上げるためにと、遠く近く網を下ろし釣糸を垂れている。ああ、そんなにも途方もなく広々した所であることか、ああ、こんなにも見るからにゆったりした所であることか。こんな有様を見ると、神代の昔から宮殿がここに造られたのは、もことにもっともなことに思われる。


4361

桜の花は今がまっ盛りだ。難波の海の、その照り輝く宮で天下をお治めになるのと時を同じくして。

4362

大海原のゆったりとした景色を眺めながら、葦の花散るこの難波で、いついつまでも年月を過ごしていたい、そんな気持ちになってしまう。