日本史の誕生 岡田英弘著
『日本書紀』は、681年、天武天皇の命令ではじまった歴史編纂事業が、39年をへて、孫娘の元正天皇のとき、720年にいたって完成した。もともと歴史というものは政治上の都合で事実が曲げられやすいところへもってきて、『日本書紀』はわが国最初に書かれた歴史である。それまでの日本列島の実情がどうだったのか、まだ統一見解がない時代に、しかも672年の壬申の乱で、内戦によって政権を獲得した天武天皇とその子孫の宮廷が作りだしたのが『日本書紀』である。その内容は、日本の建国の年代を668年ではなく、それより1327年前におき、日本列島は、紀元前660年の神武天皇の即位以来、常に統一され、万世一系の皇室に統治されてきたこと、日本の建国には中国からの影響も、韓半島からの影響もなかったことを主張するものである。『日本書紀』が、単なる事実の記録や、古い伝承の忠実な集成であるわけではない。建国事業の一環として作られる歴史なのだから、当然、現政権にとってぐあいの悪い話にはなるべくふれず、都合のよい話をできるだけとりいれることになる。まだ、生き証人がいるような新しい時代のことは、そうそう嘘はつけないから、天武天皇の父の舒明天皇が即位した629年からあとの史実は、かなり正直に書いているようである。
ところがそれ以前になると、もういけない。舒明天皇(田村皇子)は、聖徳太子の息子(山背大兄皇子)を押しのけて即位したので、このへんの事情の説明は、どうも歯切れが悪い。推古天皇の死後、後をついだ倭王が、敏達天皇の孫で、しかも推古天皇の血筋ではない舒明天皇であること、舒明天皇の死後まもなく、聖徳太子の息子(山背大兄皇子)が殺されることを考え合わせると、推古天皇と聖徳太子についての『日本書紀』の記述は、舒明天皇が倭国の王位を奪った事情にまつわる後ろ暗さの反映であろう。同時代の636年に中国で書かれた『随書』の「東夷列伝」の記述によると、600年から610年にかけて、日本列島でもっとも有力だった酋長は、ヤマトに都する倭王・阿毎多利思比孤(あまたらしひこ)だった。これが男王だったことがはっきりしているのに、『日本書紀』によると、推古天皇という女帝の治世になっていることは、何か重大な事実を隠すための故意の嘘としか考えられない。
ただし舒明天皇以前についての『日本書紀』の記述が全く嘘ばかりとも言えないので、488年に中国で書かれた『宋書』や、それに引用してある478年の倭王・武の文面から判断すると、『日本書紀』に登場する仁徳天皇から清寧天皇にいたる七代の、いわゆる河内王朝の歴代は、実在した倭王だったらしい。しかし『日本書紀』が伝えるそれぞれの事跡は怪しげものばかりで、ほとんど史実らしくない。
仁徳天皇以前の天皇となると、これは系図も事跡も、七世紀の末から八世紀のはじめ、『日本書紀』の編纂が進行しつつあった時代の、純然たる創作である。仁徳天皇の父にしてある応神天皇は、もともと人間ではなく敦賀の気比(けひ)神宮の祭神だった。それが六世紀の半ばに越前から出てきた新しい王朝を建てた継体天皇の祖先神となって、倭王の系図にとりこまれたまでである。
応神天皇の両親ということになっている、仲哀天皇と神功皇后の起源はもっと新しい。これは博多の香椎宮(かしいぐう)の祭神で、660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済の救援の博多に出張した斉明天皇の宮廷にはじめて見いだされ、663年の白村江の敗戦で百済の復興が失敗に帰したあと、天智天皇が近江の大津京に持ち帰った神々である。
初代の神武天皇にいたっては、672年の壬申の乱の最中に、はじめて人間界に出現した神霊であることは、『日本書紀』自体が伝えている。だから、その神武天皇と、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との間にはさまる、いわゆる大和朝廷歴代の物語は、決して四世紀以前からの古い伝承によって書かれたものではない。
『日本書紀』の特徴は、編纂の当事者たちが直接経験している時代に初めて制定された「日本」という国号を、紀元前660年の神武天皇の即位の時まで遡らせて適用していることである。これは史実の歪曲だが、この書き方によって。日本列島は大昔から「日本」という、一つのはっきりした政治的な区域であって、その住民はすべて天皇家が統治してきたのだということを主張している。日本が建国した七世紀までの日本列島は、いろいろな起源の人々の雑居地帯で、住民の間には意識の統一も、文化の統一も、言葉の統一もない状態だった。そういうところで建国が行われたのだ、だから、何よりも必要だったのは、歴史という神話で、それを作りあげることで、自分たちは、皆、日本人であるという、それまでになかった意識を植えつけることだった。なにしろ「日本」という国号自体がなかったのだ。歴史が始まったばかりの日本で、日本というアイデンティティを創りだすために行われたのが歴史の編纂である。こうして作られたのが、720年に完成した『日本書紀』だ。
日本人は純粋な大和民族であって、古来、外国からの影響にあまり侵されていない。だから、優秀であり、今日、世界の指導的占められるのだ、という気持ちは、われわれみんなの心の奥底にある本音だと思う。しかし残念ながら、歴史の事実をたどれば、日本人が単一民族であることは実証きない。それなのに、われわれはなぜ、自分たちは単一民族であると信じたがるのか、というほうが重要で、かつ興味のある問題だと思う。結論から先にいうと、日本が七世紀に初めて建国した事情が、日本という国家の性格を決定してしまった。それが後々まで尾を引いていて、いまだに抜けていない。千三百年後の今日、われわれはいまだに建国当時の日本のアイデンティティを背負っている。われわれの骨の髄まで染みついている日本人・日本国家のアイデンティティの感覚が、われわれの目を覆うマスクの働きをしている。それが、現在のような国際化時代になっても、世界の問題を見えなくする原因ではないかと思う。こうしたわれわれの日本観・日本人観を追放することは、実際上ほとんど不可能だが、少なくとも、それがどういうものであるかは、認識しておく必要がある。
昔より祖禰(そでい)は、躬(み)に甲冑(かっちゅう)をつらぬき、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧(やす)らかに処(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人(もうじん)の五十五国を征し、西は衆夷(しゅうい)の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平らぐ。 |
祖禰(そでい)は「祖父である禰(でい)」の意味で禰(でい)は雄略天皇の祖父にあたる仁徳天皇の名前である。祖禰(そでい)は、祖先以来を意味するものと漠然と解釈されてきたが、これは間違いである。明確に、仁徳天皇の事跡を伝えようとしている。仁徳天皇が武力で征服したという東の毛人の五十五国は上毛野国(かみつけのくに)(群馬県)・下毛野国(しもつけのくに)(栃木県)に代表される関東地方の諸国であろうし、西の衆夷の六十六国は、九州の諸国であろう。その中間の中部・近畿・中国・四国は、かって二派に分かれて、それぞれ邪馬台国の女王と狗奴国の男王を支持した諸国であるが、今度は連合して、仁徳天皇を共通の倭王として戴いたのである。 この倭王・禰(でい)(仁徳天皇)が渡って平らげた海北の九十九国とは、いうまでもなく韓半島の諸国である。韓半島では、楽浪郡の故地を占領した高句麗王国が、369年、故国原王(ここくげんおう)にひきいられて南下を開始し、帯方郡の故地に独立していた百済王国を征服しようとしていた。百済王の太子・貴須・近仇首王(きんきゅうしゅおう)は、難波の仁徳天皇と同盟して、仁徳天皇を倭王として承認、証拠として七支刀を作って贈った。大和の石神神宮に現存するこの七支刀には、秦和四年(369)の日付と、次の銘文が刻んである。 先世以来、いまだこの刀あらず。百済王世子は、聖なる晋に生まれたを奇とし、ことさら倭王のために旨(し)して造らしめ、伝えて後世に示す。 こうして仁徳天皇が倭王の地位を外国から承認された369年は、河内王朝の建国の年と見なしてよい。これが、機内の倭国の起源となった。 倭国の後援をとりつけた百済は、371年、再び高句麗と戦って破り、故国原王を殺した。20年後の391年、倭国は初めて韓半島の大規模な介入を行った。高句麗の「広開土王碑」によると、 倭は辛卯(しんぼう)の年(391)をもって来たりて海を渡り、百残(ひゃくざん)(百済)・□羅(新羅)を破り、もって臣民となす。 これが倭王・武の手紙に言う、祖父の禰(でい)が渡って海北の九十五国を平らげたという事件であることは間違いない。 『日本書紀』の「仁徳天皇紀」は、こうした倭王・武の手紙と「広開土王碑」からうかがえるような、日本列島諸国の武力制圧については、何一つ語っていない。 412年に高句麗の広開土王が死んで、高句麗と倭の間に和解が成立した。高句麗の長寿王の使者と、仁徳天皇の息子の倭王・讃(履中天皇)の使者がつれだって、南京の東晋の朝廷を訪問した。この時すでに東晋朝の実権を握っていた将軍・劉裕(りゅうゆう)は、420年、自ら皇帝となって宋朝を建てた。これが宋の武帝である。 この宋朝と河内王朝の倭国は、倭・王讃の弟の倭王・珍(反正天皇)―倭王・済(允恭天皇)、倭王・済の息子の倭王・興(安康天皇)―倭王・武(雄略天皇)の二世代、五王にわたって友好関係を保った。 |