日本文化の歴史        尾藤正英著

 文化とは、歴史的に形成されてきた日本人の生活や思考の様式の全体を、特にそこに現れた民族としての個性ないし特性に注目して考える意味での概念である。いま、日本の文化が問われている。一つには、日本人のアイデンティティの確立のためであり、もう一つは、国際化の潮流のなかで、日本とは何かを、世界に向けて発信するためである。

 世界の諸外国との関係からみると、日本に日本文化が存在するというのは、日本人が普通に考えているほど、自明の事実ではない。明治維新以後の日本の近代化について、欧米人がともすれば「猿まね」と言いたがるのは、その近代化を支えた日本固有の伝統的要因を無視しているからである。また東アジアにおいても、中国にせよ、韓国にせよ、日本の文化などは、大陸文化の亜流であるとし、独自の価値あるものなどとは全く考えていないのが実情である。この状況を克服するためにも、日本の文化がいかなる性格のものであり、また、いかにして歴史的に形成されて来たのか、について明確な認識をもつことが必要とされる。

記紀神話

 イザナギ・イザナミという男女二神の結婚による「国生み」、すなわち日本の国土の生成に始まり、最後に火の神を生んだために焼け死んだイザナミを、黄泉国よみのくにまで訪ねていったイザナギが、そこから逃げ帰り、禊ぎをした際に、天照大神あまてらすおおみかみ・月読命つくよみのみこと・素戔鳴命すさのおのみことの三神が生まれる。天照大神が高天原の支配者と定められ、やがてその孫に当たるニニギの命が、天上から日向の高千穂の峯に降下(天孫降臨)して、その子孫が日本の君主である天皇となる。

前方後円墳

 この形の墳墓は、王権ないし地域の首長としての地位を継承するための儀式が行われる場所であって、まず夜間に後円部の墳頂に設けられた竪穴に、死亡した首長を葬るとともに、その墳丘の上で、王権継承の儀式を行い、ついで夜明けのころ、前方部に進んで、その下にならぶ百官有司の前で新しい首長になったことを宣言する儀式を行った。前方後円墳が、大小の差はあれ、全国的に分布しているのは、大和政権に設計図に似たものがあって、それが各地の首長らに配布された結果だと考えられる。各地に分立していた地域の首長らは、独立した小国家の建設をめざすよりも、統一国家に服従する道を選んだと考えられ、統一国家の建設が急速に進んだ。

仏教の伝来

 仏教の伝来は、公式に百済の聖明王から、はじめて大和朝廷に仏像と経論などが贈られた年(538年または552年)を指す。六世紀中葉には、大陸文化の影響などにより、前方後円墳の築造は衰退に向かい、伝統的な原始的信仰は薄れつつあった。統一国家を支える政治的宗教として仏教へと変化していった。これがいわゆる国家仏教、すなわち鎮護国家を主眼とする仏教であって、やがて奈良時代にその頂点を迎える。

国民的宗教

 日本人の宗教というと、仏教と神道など、複数の宗教が併存している。神道と仏教とを基本として、地域的にも、また社会階層の面でも、国民的規模において共有されている宗教を国民的宗教とよぶ。十五、六世紀のころ、村や町など、住民の自治組織としての共同体が形成されるとともに、村や町の神社の神は、住民の守護神であるとともに、神社の運営は住民の共同の組織によって営まれたのが普通である。これと同様の変化が、仏教にもみられ、地域社会に寺が創立され一般の庶民のための菩提寺となり、すべての人が死後に葬式をしてもらえるようになった。

本居宣長の「神の道」

 まず、イザナギ・イザナミの二神が「始めたまひ」、天照大御神が継承して伝えた「道」であるという。「神の道」は天皇の国家統治の原則であるが、それは、必ずしも天皇が直接政治を行うことを意味するものでない。時代によって政治制度には変遷があるが、その変遷もすべて「神のはからひ」である。江戸時代の現実については、朝廷からの委任とか預かるという観念で政治的秩序を説明するとともに、神々から大名の家来まで、さらに人民も、すべて「私心」をもたないのが、神の道に合致することなのである。社会の弊害を、政治改革などによってではなく、政治を行うものの「私心」を戒め、精神の面から社会を正しくしようとしたのが、「神の道」の教えであった。

国家神道

 国家による神道の保護、すなわち国教化という政策が明治政府によってとられ、明治元年に政府は神仏分離令を発して、神と仏の区別を明確にさせた。それまでは、神社か寺か不明確なところが多く、形式的には神社であっても、実質上は社増とよばれる僧侶が仏式の儀礼を行い、神職よりも高い地位を占めて一社の管理権を握っていた。この政策により、僧侶を追放したり仏像を破壊するなどして、純粋の神社になったのである。さらに新しく、楠正成を祀った湊川神社などが創設され、また天皇を祭神とする橿原神宮や平安神宮などもつくられた。多くの大きな神社は国家によって管理され、神官は政府から任官された。このような神社制度により、国家を支える宗教となった神信仰は、第二時大戦後に日本を占領したアメリカ軍によって、国家神道とよばれ、それが軍国主義の支えになったという理由で、制度としては廃止された。