夏が来なかった時代 歴史を動かした気候変動        桜井邦朋著

 1775年ごろから始まった気候の寒冷化は、1780年(安永九年)以後厳しくなり、その傾向は1820年ごろまでつづく。当時の夏は暑くならず、雨の日が多かった。このような気候の寒冷化した時代の1783年(天明三年)の初夏に、浅間山が大噴火した。そのときの噴煙が成層圏にまで達し、地球規模の寒冷化をさらに強めた。1783年と翌84年にアイスランドのラーキ火山が、大噴火し浅間山とともに気候の寒冷化にかかわった。

 1782年(天明二年)から1787年(天明七年)の天明の飢饉を境にして110万人あまりの人口が減少している。当時の日本の人口の約4.3%が減少したのである。また、天明年間には、わが国は北海道を中心とした当時の北蝦夷の経営が、時の政府により試みられた。田沼意次により探検が実施されたが、これは当時のロシアの南下政策に対応したものであった。わが国の北辺における国境の確定をめぐって、北蝦夷の探検が重要となったのである。一方、ロシアの南下政策は、気候の寒冷化により食料の安定供給をめぐって起こったものといわれている。当時のシベリア東部では、冬の厳しさは相当のものであった。



 フランスではフランス革命以前の10年ほどにわたる時代の気候は不順で、厳しく寒い冬や冷夏とそれにともなう旱魃がくりかえされていた。フランスでは飢饉が1775年、1785年、それに1788年から89年にかけてと、当時三回起こっている。1778年はひどい不作で、経済的には恐慌を来たしたが、その状況は1787年から翌88年にかけての冬の厳しさから生じたのであった。こうした人びとの苦しみが一揆につながった。一揆では、金持ちたちの城館の焼き討ち、農民たちに対する封建的義務にかかわる文書の廃棄、穀蔵の解放、牧場の占拠、穀物の安い設定などが実現されている。
 歴史家のコバンによると、「悲惨な収穫に終わった後ににおける最悪の時期は、常に翌年の初夏に起こった。このころに前年に収穫された穀物が底をついているのに、その年の実りはまだだからである」という。1789年7月14日にバスティーユ刑務所の襲撃が始まった。
 フランス革命直前のフランス農民の大部分が貧農で、穀物の数年分の貯蔵などとても不可能なことであった。したがって単年度であっても、農作物の不作がいったん起こると人びとの暮らしは極端に悪くなり、飢餓状態にすぐにつながった。

 1812年にナポレオンはロシアに遠征に失敗している。1810年代ののヨーロッパは、厳しい寒さにおおわれていた。こんな気象条件の中で、ナポレオンはロシア遠征を決行したのだから、当初予定されていたように短期決戦でロシアを屈服させられなかったのは、大きな誤算であった。戦争と気象の関係が、1812年におけるナポレオンとアレクサンドル一世との対決にとって、決定的な役割を果たしている。