軍師 直江兼続     坂口安吾ほか

 直江兼続は、永禄三年(1560)に越後魚沼郡上田(現、南魚沼市)で生まれ、樋口与六といった。樋口家は、木曾義仲の四天王の一人、樋口次郎兼光の子孫といわれるが、父の樋口惣右衛門は、謙信の一族、長尾政景の家臣であった。この政景婦人が謙信の姉の仙桃院で、二人の間に生まれたのが景勝であった。仙桃院にみこまれて、樋口与六は、わが子景勝の近習とされた。謙信が、義兄、長尾政景の水死のあと、景勝をひきとって後嗣としたのは、景勝十歳のときである。天正六年(1578)に北条、織田討伐の大軍を春日山城下に集結させた前夜、謙信は四十九歳で急死。謙信の二人の養子、景勝と景虎のあいだで跡目争いが起きる。御館(おたて)の乱に勝利した景勝が上杉家当主となった。兼続は景勝のすすめで、未亡人となっていた直江景綱の娘お船と結婚し、上杉きっての名門である直江家の名跡を継いだ。

 天正十一年((1583)、豊臣秀吉とよしみを通じた景勝は、天正十六年(1588)、上洛し参議に叙せられ、兼続も従五位下山城守に任ぜられた。

 慶長三年(1598)正月、会津の蒲生氏郷が急死したあと、秀吉は上杉景勝を越後から会津百二十万石に転封された。その際直江山城は米沢三十万石の領地をもらった。秀吉の真意は、百年余の土地との密着から切り離すことによって、上杉勢力を弱体化し、兵農分離の鉄則を実現させ、同時に関東の徳川氏の監視役とするための措置であった。八月に、豊臣秀吉は死んでしまう。

慶長四年(1599)三月、家康への叱責が出来る立場のだだ一人の人物だった、前田利家が亡くなってしまう。

 上杉景勝が伏見から会津若松へ帰ったのは慶長四年八月三日である。このときすでに景勝と直江山城守とのあいだには、家康に一泡ふかせようという目論見が成立っていた。直江が儒学者・藤原惺窩(せいか)の門をたたいたのは、ちょうどこのときである。景勝から三日遅れて伏見を発った直江山城守は、単身で大津の郊外に閑居している藤原惺窩を三度訪ねて、三度とも玄関払いをくらった。直江もとうとうあきらめ大津で三晩を過ごした後、いよいよ出発というときに藤原惺窩の訪問をうけた。直江が「継絶扶傾」という言葉の意味をたずねた。当時の現象に照らし合わせて考えると、豊臣家の社稷(しゃしょく)の絶えんとするを継ぎ傾かんとするのを扶けるという意味になるのではないか。藤原惺窩は、「これを行えば、行う者の運命に破綻を生ずるだけでなく、天下万民を苦しめる結果になることも当然である」とこたえた。伝説によると、藤原惺窩は直江の宿営を出て、夜の空を仰ぐと同時に涙をハラハラと落としたという。「ああ、天はまだ禍を悔いようとしないのか、天下は遠からず大乱におちいるのであろう、おれはこの眼で、億兆の精霊がふたたび塗炭の苦しみを受けるのを見るに忍びぬ」 関ヶ原の合戦はここに端を発した。

 慶長五年(1600)、にわかに天下の雲行がけわしくなった。会津の上杉景勝に逆心あり、という風聞がたった。会津へ帰国した景勝・兼続主従は、ただちに若松の西南の神指原(こうざしはら)に、新城の構築をはじめた。神指城(こうざしじょう)とよばれる新城は、景勝が前会津領主、蒲生氏郷の手になる、若松城以上の城をつくる意気込みでとりかかった。本丸は東西約180m、南北約300m。二の丸は東西およそ470m、南北およそ520mあり、上杉景勝の二百数十年におよぶ北越の名門たる自負とともに、養父謙信の武名への意識、家康なにするものぞという強い対抗心がよみとれる。景勝と兼続は、全精力を軍備の強化にかたむけた。兵糧、武器弾薬をあつめ、道路や橋梁の整備に専念する一方、新規の牢人をどしどしと召抱えた。牢人たちの中には、前田慶次郎、上泉泰綱(最上家の長谷堂城攻めで討死)、小幡将監といった天下知名の連中もいた。

 家康は、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家に会津征伐の決行をつげると、彼らは慎重に調査すべきだと反対したので、家康は、部下の伊那昭綱と、五奉行の一人増田長盛の部下河村長門に、上杉景勝宛ての上洛勧告の書状をもたせた。書状は、直江兼続と懇意であった相国寺(しょうこくじ)塔頭の豊光寺(ぶこうじ)、西笑承兌(さいしょうしょうたい)に命じて書かせたもので、兼続にあての四月一日付けの景勝の非違八ヵ条を書きつらねたものである。書状の要点は、景勝が西上して、これまでのことを陳謝すべきであるというものである。家康の詰問状を受け取った直江兼続が、それに対して反論したのが四月十四日付けの直江状といわれるものである。

 慶長五年(1600)七月、家康軍の主力八万は下野の小山を中心に展開した。対する上杉軍五万は、白河の後方三里の地に本営を置き、革籠原(かわごはら)に部隊を展開させた。家康の大軍を白河表に誘いよせ雌雄を一挙に決する作戦のみ成算があったのだ。七月二十四日、石田三成は秀頼を立てて挙兵していた。毛利は大阪城に入り、はっきりと家康との対決姿勢を示した。かねて兼続が連絡をとっていた常陸の佐竹義宣も、上杉への合流を約していた。それらの状況を読んで、家康は決断がつかなかったのだ。その家康もついに八月四日から撤退、江戸城に入る。戦局はすでに関ヶ原へと移りつつあったのだ。

慶長六年(1601)、上杉家は米沢三十万石に減封された。兼続は、この減封に対処するため、若松城から米沢城のへの移転と家臣の給付を三分の一とせざるを得ない通達を即刻に手配し、田野の開墾、植林、治水、風土にふさわしい殖産事業の指導、狭隘な米沢における住宅問題の解決にあたった。