三輪山の古代史 平林章仁著
奈良盆地の東南部、桜井市三輪に鎮座する大神大物主神社は、古来本殿がなく、秀麗な円錐形の三輪山を神体とすることで知られ、大和王権にとって祭祀は不可欠であった。その祭神は蛇身の大物主神と伝える。この大神神社の西北には初期大和王権の王宮跡と目される広大な纒向遺跡が広がり、その一廓には定型化した最古の巨大な前方後円墳である箸墓古墳がある。
古事記、日本書紀には、三輪山の大物主神と巫女的女性による、内容を異にする三様の神婚伝承が載録されている。
苧環型神婚譚(古事記・崇神天皇)
大物主神のたたりで疾病が流行したが、河内の美努村(大阪市堺市)の意富多多泥古命を神主として祭らせたら終息したという記事に続く、意富多多泥古命の出自譚かつ美和(三輪)の地名起源譚である。
意富多多泥古が、神の子孫と知ったわけは次のとおりである。活玉依毘売のもとを訪ねる男の正体を知るため、男の衣の裾に麻を糸につむいで環状に巻いた閉蘇紡麻を縫いつけた。翌朝、その麻糸をたどって行ったところ、三輪(美和)山の神の社に留まっていたので、意富多多泥古が三輪山の神の子であることがわかったという。苧環が三勾残っていたので三輪という地名になったという。
丹塗矢型神婚譚(古事記・神武天皇)
初代神武天皇の大后、富登多多良伊須須岐比売(またの名は比売多多良伊須気余理比売)は、摂津の三島溝昨の女、勢夜陀多良比売が「大便為れる時」、丹塗矢と化して溝を流れて来た三輪の大物主神が彼女の陰部(富登)をついて生まれた神の御子であるという。
箸墓伝承(日本書紀・崇神天皇)
倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻となった。しかしその神は昼は来ないで、夜だけやってきた。倭迹迹日百襲姫命は夫にいった。「あなたはいつも昼はおいでにならぬので、そのお顔を見ることができません。どうかもうしばらく留まってください。朝になったらうるわしいお姿を見られるでしょうから」と。大神は答えて「もっともなことである。あしたの朝あなたの櫛箱に入っていよう。どうか私の形に驚かないように」と。倭迹迹日百襲姫命は変に思った。明けるのを待って櫛箱を見ると、まことにうるわしい小蛇がはいっていた。その長さ太さは衣紐ほどであった。驚いて叫んだ。すると大神は恥じて、たちまち人の形となった。そして「お前はがまんできなくて、私に恥をかかせた。今度は私がお前にはずかしめをさせよう」といい、大空を踏んで御諸山(三輪山)に登られた。倭迹迹日百襲姫命は仰ぎみて悔い、どすんと坐りこんだ。そのとき箸で陰部をついて死んでしまわれた。それで大市に葬った。ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。
苧環型神婚譚は、機織集団や機織文化との関係が考えられる。須佐之男命が逆剥ぎした天斑駒を斎服殿に投下したことにより、機織の梭で陰部をついて神去った天照大御神の物語などを参考にすれば、神婚の場は機殿だった。神の妻となる女性が神衣を織る織姫であった場合、機殿が神婚儀礼の場になることがあったと考えられる。
丹塗矢型神婚譚では、勢夜陀多良比売は用便時に溝を流れて来た丹塗矢と交わったのであり、神婚の場は便所(厠)であったことになる。厠は生と死、この世と他界を結ぶ間とも観念され、神婚の儀場として使用された。
箸墓伝承の倭迹迹日百襲姫命の陰部をついた箸は食器の箸ではなく、用便時に使う箸、すなわち籌木である。籌木は用便後に尻の始末をする木片のことで、現在のトイレットペーパーにあたる。箸墓伝承は、三輪山の大物主神の化した箸=籌木と王家の最高巫女倭迹迹日百襲姫命の厠で交わる神婚の物語であった。厠での秘儀は、箸=籌木、などを用いた姫事であった。三輪山の大物主神と巫女の神婚の秘儀の目的は、地の精霊たる蛇神と聖なる処女の結合によって、その年の豊稔を促し社会の安寧を確かなものにしようとする、呪術的な予祝にあったと考えられる。箸墓は、この世とあの世の間とも観念された厠で、三輪山の大物主神の化した箸=籌木と交わり、その間渡し(神託)を行っていた、偉大な巫女王の墓であった。