古典の文箱ふばこ    田辺聖子著

 古典には、人間の営みのすべてがある。男女の機微も、哀歓も。自然と共に暮らす祖先の心映えや英知も。失ってはならない、心のふるさとを。受け継いでいこう、民族の誇りと遺産を。現在の若者には古典アレルギーが多い。漢字制限が行われ、漢文学教養がなおざりにされてゆく当節の学校教育だから、古典にもうとくなってゆくのは当然かもしれないが、若い人に古典のふかい滋味を説くのも、年齢的先輩のつとめ、また、<もの書き>としての義務だと説いている。人の心が古典を愛することで柔らかくなめされれば、日本の四季や自然の風物を愛すべきを知るようになる。この小説は田辺聖子の”古典恋い”の集成である。このなかから平家物語の記述を紹介する。

平家物語

 筆者は『平家物語』に出てくる今井四郎兼平が好きだと言っている。源義経には武蔵坊弁慶がいたし、木曾義仲には今井四郎兼平がいた。しかし勝者の頼朝には誰がいたろうか。木曾義仲は短い光芒を放って消えた敗者だが、今井四郎兼平という男との友情を得た点では勝者だった。

 治承四年(1180年)秋、義仲は兵をあげる。破竹の進撃をくり返して寿永二年(1183年)義仲たちはついに都へ入る。平家の赤旗にかわって源氏の白旗が都を埋めた。しかし木曾育ちの若者たちに都の水は合わなかった。夜襲や不意討ちといった戦闘には練達の義仲たちも政治には全くお手上げである。ことに老獪な後白河法皇にはさんざん翻弄される。都びとは木曾義仲らを田舎者と蔑視し、ことごとにわらう。若い兵たちが飢えて狼藉をはたらくのを都びとは<平氏より悪い>と嘆く。

 法皇との仲も円滑を欠き、義仲は日一日窮地に追いつめられる。ついに院の挑発に乗り、院の御所・法住寺を焼き討ちする。たちまち朝敵となって源義経・範頼のりよりの軍に追われることになる。六条河原で木曾軍はほとんど玉砕してしまう。瀬田の守りについていた兼平は都へとって返し、義仲と大津の打出浜うちいではまで出会う。

 ついに兼平と主従二騎になった義仲は述懐する。

「日頃はなにともおぼえぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや」

 兼平は声をはげまして叱る。

「御身もお馬も疲れておられぬものを、なんでおん鎧が重う感じられるのか。味方がないから心細さにそう思われるのでしょう。兼平一人おれば千騎ありとおぼしめせ。矢も七、八本残っておりまする。あれにみえる粟津の松原で自害なされ」

 義仲は従わない。

「おれは都の合戦で死ぬべきだったが、ここまでのがれて来たのは、お前と一緒に死のうと思ったためだ。別々に討たれるより、ひとところで討死しよう」
と馬の鼻を並べて敵勢の中へかけ入ろうとする。兼平は馬から飛び降り、主の馬の口をとりついていうよう、

「弓矢取りはふだんどんな立派な評判をとっていても、最後のときに不覚をとると長い疵になります。おん身は疲れられた。つづく味方もおりません。つまらぬ郎党どもの手にかかり、討たれなされては口惜しゅうございます。ただあの松原へ」

 義仲はさらばと一騎、かけゆき、兼平はそのあと敵勢に大音声あげて名乗る。

「日頃は音にもきゝつらん、今は目にも見給へ、木曾殿の御めのと子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さるものありとは鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。兼平うつて見参にいれよ」

 射残した八本の矢をさしつめ引きつめ射て、「死生は知らず」やにはに八騎を射落とした。ついで打ち物とって戦うに、立ちむかう相手もないほどの猛烈さだった。「射止めろ」と敵はかこんでさんざんに射かけるが、鎧がいいから矢は通らず、すき間を射られないので兼平は手傷も受けない。

 この間、義仲は薄氷のはった深田へ馬をざぶんと乗り入れてしまう。馬は足をとられて動かない。

「今井が行方のおぼつかなさに」ふとふり仰いだところを射られて、首をとられてしまう。その勝ち名乗りを聞いて兼平は、

「今は誰をかばはんとてか戦をばすべき。是を見給へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」
といって太刀のさきを口に含み、馬から逆さまに飛び降り、首を貫いて死んだ。