古代天皇はなぜ殺されたのか        八木壮司著

 古代史学界によって、その存在が史上から抹殺されたのは、まず初代の神武天皇である。ついで第二代から九代まで、いわゆる「欠史八代」の天皇が八人ともに抹消された。第十代の崇神(すじん)天皇は、いまの学界のほぼ全員に実在を認められている。第十一代垂仁(すいにん)天皇もだいたい実在の人物とみなされている。第十二代景行天皇、第十三代成務(せいむ)天皇、第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇、そしてその妻である神功(じんぐう)皇后までその実在性がうたがわれている。第十五代応神天皇以後は、架空の人物との烙印をおされた人はひとりもいない。古事記、日本書紀に記録されている初代から十四代までのうち、実在がほぼ認められているのは、第十代の崇神(すじん)天皇と第十一代垂仁(すいにん)天皇の二人だけという。

 敗戦後は戦時中のすべてを否定して出直さなければならなかった。戦前の価値観は軍国主義として断罪され、一掃された。皇国史観の聖典といわれるような歴史書は、いっさいこれをみとめてはならず、神武天皇や神功皇后は軍国主義の象徴とみなされ、史上から抹殺されねばならなかった。こうして、日本書紀の内容を否定し、その記述とは反対の説をとなえることが古代史学界の主流となっていた。しかし、古代において大和民族が大陸に進出した事実が、近代と似たかたちで日本書紀に記録されているからといって、日本書紀を否定しなければならない理由は、まったくない。神武天皇も神功皇后も、純粋に実在の根拠があるなら、時流におもねることなく堂々と現代によみがえらすべきであろう。昭和の大戦が終わって約六十年、民族の歴史に新しい光をあてるときがきている。

 日本書紀は神武天皇の即位の年を紀元前660年に設定した。これは、明治時代の歴史学者、那珂通世(なかみちよ)の「辛酉(しんゆう)革命説」が定説とされている。中国古代の讖緯(しんい)説という俗説があって、辛酉の年に世に異変がおこり、特に干支(かんし)21巡目の辛酉年には、王朝がくつがえされ、天地がひっくりかえるような大革命がおきるとされている。推古天皇の九年(601年)は辛酉年である。そこで日本書紀の編者らは讖緯説にしたがって、この年から干支21巡前、つまり1260年前の辛酉年に大革命がおきたとし、神武天皇の即位という画期的なできごとをこの年にあてはめたというのである。しかし、小さな部族国家さえも生まれていなかった紀元前660年には、神武東征という大事件はおこりようがない。

 神武天皇の伝承の中心テーマは、東征にある。日本書紀の編年では、日向(ひむか)を出発した甲寅(こういん)年の十月から橿原の宮で即位する辛酉年の正月にかけての実質6年2ヶ月である。東征軍により、瀬戸内海から大和へかけての国々は、つぎつぎと騒乱状態にまきこまれていく。力のない部族は、東征軍に服属させられ、戦いをいどんだものは容赦なく討伐された。瀬戸内海地方や紀伊半島の高地性集落のうち、二世紀ごろの遺跡は、神武東征の動乱を避けるためにつくられたものとみられる。中国の歴史書の「倭国の大乱」は、神武東征の情報が中国側に伝わったものだと推測される。日本書紀のしるす「甲寅年から辛酉年」は「西暦174年の甲寅年から西暦181年の辛酉年」と推測できる。神武天皇が即位したときの大和の国は、奈良盆地の南半分でしかない。中心は磐余(いわれ)から橿原(かしはら)にかけての奈良盆地の東南部で、西は葛城(御所(ごぜ)市)まで、北は磯城(しき)(磯城郡)と和珥(わに)(天理市)あたりまでだったと推定される。中国の歴史書にしるされた倭の小国家群の1つにすぎなかった。

 天皇家が奈良盆地の北部から正妃をむかえるのは、第八代孝元天皇がはじめてである。それまでは、奈良盆地の南から妻をえている。初期大和政権の勢力圏が、第八代孝元天皇の時代にはじめて南大和から北大和へひろがり、さらにいまの京都府南部から大阪府北部の北河内までのびたのである。つぎの第九代の開花天皇の時代になると、京都府の北端、丹後半島の竹野(たかの)から側室をえているのは、大和の勢力が日本海に達した証であろう。

 第八代孝元天皇の即位は275年ごろと推定される。卑弥呼のあとをついだ二代目女王、壱与(いよ)が、晋(西晋)に使節を派遣したのが266年である。女王国と天皇の統治する大和の国が奈良盆地の南北にわけあっていたことになる。いまの奈良県の北から京都府北部へひろがっていた女王国を併呑(へいどん)したのは、通婚圏の拡大ぶりからみて、第八代孝元天皇であろう。古事記、日本書紀に女王卑弥呼と壱与の姿がなく、いっぽうの魏志倭人伝の邪馬台国に歴代天皇が一人も登場しないとすれば、邪馬台国と大和は、別個に存在した没交渉の敵対国だったというである。