古代蝦夷とアイヌ        金田一京助著

 奥州の蝦夷は、アイヌ族だった。わが国は国初からこの隣人を文化的に同化して、今日の渾然たる東北日本を造りあげました。蝦夷とアイヌの相違は、本州にいたアイヌが蝦夷で、北海道にのこった蝦夷がアイヌであった。蝦夷とアイヌの相違は根本にあるのではなく、ただ地方的な差、すなわち人種の差ではなく支流の差でありはしないだろうか。アイヌ語地名の分布はほぼ白河関以北に限られ、関東地方、中部地方以西でアイヌ語地名を見出しがたい。アイヌは北方から南下したものであって、その足跡が日本全土に及んでいない。したがってアイヌは、日本全土の原住民ではなく、ただ東北地方の原住民だった。

 名古曾の関・白河の関から北へどしどし拓殖が進んだころには、陸前・陸中が当時の蝦夷の巣窟で日高見の国だった。日高見川、それが今の北上川である証拠は北上河岸に日高見神社、また日高見山妙験社があって古名が残っている。

 日本ほど、体毛のまちまちな国民はない。これは、体毛の中位なアジア系の大和民族が、多毛なアイヌと無毛の南洋族を混じってできあがった日本民族だからである。しかも日本国民中、多毛な人が、ひとり奥州に限らず、九州にも、四国にも、山陰・山陽にも、全国的にいるのは、毎年、百人、二百人と大和朝廷の文化を慕って帰服する蝦夷の俘囚(ふしゅう)を、朝廷は全国的に、殊に、大陸からの侵攻に備えて、西南諸国にもいっぱい土着させて国民化させられた。歴代の俘囚が五畿内を除く諸国いっぱいに移植されていて、それを食わせる米を、国々に諸税とあわせて俘囚料と名づけて徴収していた。まさかの時のよい兵になるからと、朝廷は俘囚を、耕作に習熟するまで、一代も二代も養われた。蝦夷は漁猟の民だったからである。

 遠く阿部比羅夫や坂上田村麿の蝦夷征伐に蝦夷の巣窟が掃蕩され、近く前九年、後三年の役でその本拠が覆された蝦夷族は有史以来の対峙抗争の地位から引落され、わずかに東北の一隅にただ伝統的な余勢を擁するに過ぎなくなった。しかも源頼朝の奥州征伐は、この古民族の運命に下した最後の鉄槌であった。平泉に最後の俘囚の藤原清衡・基衡・秀衡三代のミイラが、内地の他のどこにもない、陸奥にだけ、蝦夷の大酋長の葬儀法のせいで存在する。体質こそ、四代雑婚すれば原型が消滅し、もはや蝦夷の特色は見られないが、副葬品のなかにはアイヌの革製の燧袋があったり、まぎれもないアイヌ模様の布が存在した。平泉に小京都を現出した三代の栄華こそ、消えなんとする本州蝦夷の最後の一瞬の炎だった。