日本古代国家の成立        直木孝次郎著

 『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国女王卑弥呼はは248年ごろ死亡した。卑弥呼の死後は千余人が殺されたという内乱をへて、壹与が邪馬台国の王となる。250年ごろ卑弥呼のあとを継いだ壹与が魏に遣使し、265年に晋が魏に代わって建国すると、倭はその翌年(266年)直ちに遣使している。邪馬台国は、266年ごろまでは存続したと思われる。

 大和朝廷の前身となる初期大和王権は、初期古墳の分布からみて、三世紀末以後に成立した。奈良盆地の東に秀麗な姿を見せる三輪山は、神の山として古くから大和の人々の信仰を集めているが、その東の山麓地域には、北から西殿塚古墳(伝継体天皇の后 手白香皇女墓 220m)・行灯山古墳(伝崇神陵 240m)・渋谷向山古墳(伝景行陵 310m)・箸墓古墳(278m)と、墳丘の全長が200〜300mにおよぶ四基の大型前期古墳がならんでいる。初期大和王権は邪馬台国連合が解体して以後成立したと思われる。邪馬台国と初期大和王権のあいだには断絶がある。初期大和王権は卑弥呼の政治にみられるような呪術性は残しているが、武力・権力の面において邪馬台国より一段と進み、専制的性格が強化されたと考えられる。崇神にはじまる政権は三輪山山麓の磯城・纏向を中心として成立したので、これを三輪王権と呼ぶ。ミマキイリヒコ(崇神)・イクメイリヒコ(垂仁)などが王として実在し君臨していたのであるが、イリヒコ・イリヒメ系の人名の多くが三輪王権の王や王族であったと思われる。

 『記紀』によるお、崇神天皇のとき大物主神のために国中に疾病がおこり、人民が多く死んだ。大物主神は三輪山の神である。天皇は大物主神を祭ったが験(しるし)がない。大物主神の子孫のオオタタネコという者をさがしだして大物主神すなわち三輪山の神を祭らせたところ、疾病はようやく止んだという。三輪山の神は天皇支配下の人民に災害をもたらす恐ろしい神と思われていたのである。三輪山の神は天皇の祭祀をうけることはあるが、その本質では天皇と対立する異質の神と考えざるをえない。天皇家の先祖は、外から大和の地にはいり、それ以前から三輪山の神を祭っていた権力を打ち倒して、それに取ってかわったと考えるほかわない。新勢力が現れて三輪王権を滅ぼし、新政権を樹立して三輪山の祭祀権を奪ったのである。その新政権は五世紀代に、河内方面から侵入したと推定する。三輪王権にかかわる三輪山の神の説話は、四世紀の三輪山での話ではなく、新政権が三輪王権を滅ぼした五世紀以降の話なのである。その話が三輪王権のこととして、崇神の条にかけられたにすぎない。三輪山の神が天皇と対立の関係にあるのは、新政権が三輪山の神を奉ずる三輪王権を滅ぼしたからであって、三輪山山麓を基盤とする三輪王権が三輪山の神と対立していたのではないのである。
 四世紀末以降、大阪平野の河内・和泉には、大和の三輪山山麓の前期古墳より規模において一まわり大きい中期の大古墳が群集している。百舌鳥古墳群と古市古墳群からなり、百舌鳥古墳群には、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵 486m)、ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵 360m)、田出井山古墳(伝反正天皇陵 148m)などがあり、古市古墳群には、誉田山古墳(伝応神天皇陵 420m)、市ノ山古墳(伝允恭天皇陵 227m)などがある。河内政権が強大になったのは、瀬戸内海の海上権を握ったことによるが、そのほかに奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の強力を得られたことも軽視できない。仁徳は葛城襲津彦の娘・磐之媛を皇后に立て、四皇子をうみ、そのうち三人(履中・反正・允恭)が皇位についた。河内政権の発展の方向は、おもに瀬戸内海をこえて西国へ、さらに海外へと向かうものと、隣の大和を支配して東国に向かうものと二つであろう。東西いずれの方向に発展するにしても、政治・経済のうえでながい伝統をもつ大和を掌握することがまず必要である。河内政権の王たちは、五世紀のなかごろから政治を執る地を河内から大和へ移動させた。その事業ははおそらく雄略(457〜479)のときにほぼ成就したであろう。西暦478年、中国南朝の宗の朝廷に、倭の国王武の使者が、国書をたてまつった。宗の天子順帝はその労をよみして、武に「使持節都督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の位を与えた。五世紀のはじめ以来、讃(仁徳)・珍(反正)・済(允恭)・興(安康)の四人の倭王が中国にに使いをつかわしているが、これほど高い地位を認められた王は一人もいない。さきの四人と武とあわせて倭の五王というが、そのなかで武王がもっとも強力な王と、中国の朝廷は考えたのである。






昔より祖禰そでいみずか甲冑かっちゅうをつらぬき、山川を跋渉ばっしょうし、寧所ねいしょいとまあらず、東は毛人を征すること五十五国、
西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十九国。王道融泰にして、土をひら
をはるかにす。
宋書

泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇の代 大泊瀬稚武天皇
   天皇の御製歌
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね
そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ
我れこそば 告らめ 家をも名をも
万葉集 巻一−1