帰化人 古代の政治・経済・文化を語る            関晃著

 平安時代の初め、弘仁六年(815)に朝廷で編纂された『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)は、支配層を形成する氏(うじ)、すなわち中央政府で一定の政治的資格をもつ家柄のリストであるが、全体で1065の氏のうち、帰化人系統と称する氏は325で、ほぼ30%を占めている。また、栗田寛博士(1835〜99)が古来の史籍に現れたすべての氏の数を調査した結果もだいたい同様で、2385氏のうち710氏すなわち30%弱が帰化系統と言われるものとなっている。
 現代のわれわれの一人一人は、すべて千数百年前に生活していた日本人のほとんど全部の血をうけていると言ってもよいほどである。誰でも古代の帰化人の血を10%や20%はうけていると考えなければならない。われわれの祖先が帰化人を同化したというような言い方がよく行われるけれども、そうではなくて、帰化人はわれわれの祖先なのである。帰化人のした仕事は、日本人のためにした仕事ではなくて、日本人がしたことなのである。

 白村江敗戦(663)の結果、百済王子余豊璋は船で高句麗に逃げたが、余自進(余豊璋の弟)以下の人々は、妻子をつれて日本に亡命した。このときの亡命者の数は正確にはわからないが、極めて多数だったことは確かである。『日本書紀』からだいたい推測できる。
 天智天皇四年(665)には、百済の民、男女四百人あまりを近江国神前(かんざき)郡に移し、田を与えた。
 天智天皇五年(666)には、百済の男女二千人あまりを東国に住まわせた。
 天智天皇八年(669)には、余自信、鬼室集斯(しゅうし)ら男女七百余人を近江蒲生(がもう)郡に移住させた。
 恐らく古代帰化人のうちで、集団をなして渡来した最大のものである。しかも、その中には社会的に地位の高かったものが非常に多く含まれていた。百済の官位は佐平・達率・恩率・徳率以下十六階に分かれていたが、この亡命者の中に達率以上が約七十人もいたのである。(天智天皇十年(671)正月)
 七世紀の末頃は律令国家の建設期であって、中国的な制度・文物の整備が急務でありながら、一時唐との国交が絶えていた時期であるから、この亡命者たちの知識・技能はこの上なく貴重なものとして受け容れられた。従って彼らはかなり優遇されただけでなく、天智朝から天武・持統朝にかけて、学芸・技術の各方面に広く活躍し、奈良朝文化形成の主要な力の一つとなったのである。

 『続日本書紀』文部天皇四年(700)六月十七日の条に大宝律令の撰定に加わった十九人の名が列挙されている。このうち八人が帰化人と思われる。

刑部親王(おさかべしんのう)・藤原不比等(ふじわらふひと)・粟田真人(あわたまひと)・下毛野古麻呂(しもつけのこまろ)・
伊岐博徳(いきはかとこ)・伊余部馬養(いよべうまかい)・薩弘格(さつこうかく)・土師甥(はじおい)・坂合部唐(さかいべもろこし)・白猪骨(しらいほね)黄文備(きぶみそなえ)田辺百枝(たなべももえ)・道首名(みちおびとな)・狭井尺麻呂(さいさかまろ)・鍛大角(かぬちおおすみ)額田部林(ぬかたべはやし)・田辺首名(たなべおびとな)山口大麻呂(やまぐちおおまろ)調老人(つきおきな)

古い帰化人
大化以前の新しい帰化人
百済亡命者を中心とする大化以後の新しい帰化人