誰がケインズを殺したか W・カール・ビフン著 斉藤精一郎訳
1970年代後半に開かれたある会議で、シカゴ大学の経済学教授ロバート・ルーカスは「ケインズの死」というタイトルで話をした。ジョン・メイナード・ケインズ(1883−1946)は、すでに1946年に死亡している。ルーカスはケインズ経済学の終焉を「ケインズの死」という言葉で表現したのだった。第二次世界大戦後三十年の間に「ケインズ経済学」とめいめいしうるコンセンサスが生まれた。だが、1970年代にはこの合意は破綻してしまった。
大恐慌まで経済学者たち(古典派経済学)は、一般に資本主義体制とはその内部の自動調節機能を備えていると考えてきた。つまり、資本主義経済が不況に陥り、人々の生活や社会組織にダメージをもたらすとしても、経済のさらなる落ち込みを押しとどめ、経済をフル稼働に向けて回復させる力が自動的に働くといういうわけである。ある意味ではこの体制は、それ自体のフィードバック機能と自己調節能力とを組み込んだ自動システムになっていると考えられていた。この考え方はアダム・スミスによるものである。
ケインズの1936年の著作『雇用・利子および貨幣の一般理論』(通称『一般理論』)は、二十世紀に書かれた経済書のなかで最も影響力を持つものだ。この書物こそ「ケインズ革命」をもたらすものだった。ケインズの『一般理論』は主として、経済は自己調節力を持っているという古典派の教義に攻撃の矢を向けた。ケインズは景気後退への明確な対応策として金融政策を採用せず、財政政策を選んだ。ケインズの勧告の骨子は、民間支出を補完すべく政府予算を活用することにあった。もし、民間支出が完全雇用水準を実現するのに不十分であれば、政府は民間支出に加えるべき政府支出を増大するか、減税をする。どちらの場合も、政府予算は赤字方向に動くことになる。政府財政について均衡予算の原則が支配的だった1930年代においては、こうした考え方は極めてラジカルなものと受け取られた。@経済は完全雇用を達成するとは限らないこと。A政府は完全雇用の維持について市場の失敗を補完すべきこと。この二点こそが、『一般理論』の持つ実践的意味合いのすべてだった。拡張的な財政政策が完全雇用経済を実現しうるとの最もはっきりした証拠は、第二次世界大戦時の巨額の国防支出である。軍備の拡張がはじまるやいなや、失業はたちまち消滅した。戦後、国民は、積極策をとる政府を受け入れるようになったが、この財政政策の実験の効果によるものだった。
ケネディ大統領のもとでの減税案は1963年に議会に提出され、1964年にジョンソン大統領のもとで議会を通過した。当時、アメリカ経済は景気後退局面にはなかったが、成長率は鈍化しつつあった。減税は、現存の生産能力が完全に利用されるように経済を拡張させることでもあり、労働力化する労働者を吸収するに足る速度で長期的に生産能力を増大させることだった。減税は消費全般を刺激し、売り上げの増大のに対応して生産を拡大させる。企業の投資優遇措置は設備投資を促進させるとともに、長期的には一国の生産能力を増大させる。1964の減税について、長期的特性ならびに経済にプラスの効果を持つ点で1981年のレーガン政権時代の減税案の見本となった。
ベトナム戦争は、大幅な軍事支出と経済の供給力を上回る過大な需要を発生させた。その結果は、十年以上に及ぶインフレ経済だった。ジョンソン大統領とともにはじまった物価上昇は、ケインズ経済学への信頼性を一気に失っていった。「マネタリズム」として知られる学派から、ケインズに対して鋭い批判が浴びさられ、政策をめぐる議論に強い影響力を与えるようになった。ケインズ経済学に凱旋したのはシカゴ大学のマネタリストの総帥ミルトン・フリードマン(1912−)教授だった。そしてマネタリスト集団から輩出した若き俊英たちの一人がロバート・ルーカス教授だった。
ケインズは死んだのか。ケインズはの教えの多くは修正されてきたし、いくつかは否定されもした。しかし、ケインズの存在は、現在の経済学者たちの議論のなかに、なお感じ取れる。経済理論の盛衰を決めるのは一つには、諸学派の競争である。マネタリズムの魅力が薄れるにつれて、ケインズ経済学への関心が復活してきている。