環境考古学への招待 発掘からわかる食・トイレ・戦争       松井章著

 考古学、文献史学、動物学、生化学、昆虫学、寄生虫学などの研究者が共同で同じ資料に取り組み、過去の人間がどのような環境のもとで、どのような技術をもって生活していたかを解明するのが「環境考古学」という分野です。骨や木片、さらに種子や花粉などの自然遺物や、廃土として捨てられている土壌にこそ、それぞれの時代の人々の生活の情報が詰まっている。
 日本の遺跡の大部分は、通常は乾いた土地に眠っており、そこに雨が降れば水が染み込み、日が照れば乾くという繰り返しが際限なく続く。また日本の国土の大部分は火山性の酸性の強い土壌に被われている。そうした環境では、骨のカルシウムやリンは速やかに溶けて消え、植物も分解され炭化物以外は残らない。例外的な遺跡が弱アルカリ土壌の貝塚と石灰岩の洞穴と、木や骨が地下水で守られた低湿地遺跡である。

トイレの歴史
第一期
 集落の周辺で用を足し、自然の分解作用にまかせていた時期。
どのように大きく見える縄文集落も、季節によって離合集散を繰り返していた。そうしないと、広い範囲に点在する季節的に変動の大きい野生資源を効率よく利用することが困難だからである。

第二期
 集落の周辺を囲む環濠や、傍らを流れる河川に糞便をたれ流していた時代。
弥生時代になると人びとは一ヵ所に定住するようになり、その人口も縄文時代の大集落と比べても桁が一つ違うほどになる。弥生時代の代表的な環濠集落の一つ、大阪府の池上曽根遺跡の溝の中の土には、ゲンゴロウなどの水生昆虫や、ゴミムシ、糞虫、コクゾウムシが含まれていることが明らかになった。これまで弥生時代の集落の環濠は、軍事防御施設としての機能だけが強調されてきたが、実際の土壌分析からは下水の機能も浮かび上がってきた。
 環濠には、いつも水は流れているが、場所によってはたまりとなり、そこに捨てられた残飯にはゴミムシがたかり、そのそばでの環濠につき出したトイレの下には、糞虫が群がり、さらにその糞便の中には、米と一緒に炊き込まれたコクゾウムシが人間のおなかを経て排泄されたこともわかる。
 池上曽根遺跡では、人口が急増する中期になると、多くの井戸が掘られ、飲み水は井戸から、下水、屎尿(しにょう)は環濠に垂れ流すシステムが確立したことがわかってきた。
 溝や河川に建てかけられた「厠(川屋)式トイレ」も、弥生時代の環濠集落にはあっただろう。明確な遺構を伴うものは三世紀の纏向遺跡、その後、藤原京、平城京、そして一三世紀の鎌倉では、「樋殿(ひどの)式トイレ」と称する水洗トイレが使い継がれる。それは道路側溝を流れる水を邸宅内に引き込み、その上で用をたしたり、トイレ清掃の下級女官である桶洗童(ひすましわらわ)が、やんごとなき姫君が使ったという桶箱(ひばこ)や清箱(しのはこ)の中身をそこにあけたと考えられる。

第三期
 汲み取り土坑式トイレの時代。七世紀、藤原京にはじまり、古代、中世、近世の都市内に作られた大部分のトイレ。
藤原京の建設により、人工的な古代都市が建設されるようになり、人口の集中がさらに進むと、従来の川屋式、桶殿式の垂れ流し水洗トイレでは、環境汚染がますますひどくなっただろう。そこで、人びとは穴を掘って便槽とし、中身が溜まると汲み出して遠くへ捨てる、汲み取り土坑式のトイレが出現した。すでに藤原京では、桶殿式と汲み取り式の両方が発掘されており、そのまま一三世紀まで両者が併用されたまま存続する。
 汲み取り式トイレは、奈良時代に海外からの迎賓館であった大宰府鴻臚館(こうろかん)でも発掘されている。また、一二世紀の岩手県平泉の奥州藤原氏の初代清衡、二代基衡の居館として伝えられている柳之御所でも汲み取り式トイレが発掘されている。奈良時代から平安時代にかけての、大和政権の東北経営の拠点の一つだった秋田城ではトイレ建物が発掘された。

ウマ
 『日本書紀』応神紀に百済王が阿直岐(あちき)を遣わして良馬を二頭贈り、それらを軽(かる)の坂上の厩で飼ったと記されている。これが五世紀の伝承とすると、考古学から見たウマの出現時期とも合致する。
 しかし、貴重なウマも五世紀後半になると、わざわざ殺して古墳のかたわらに埋めた痕跡が知られるようになった。
佐倉市の大作(おおさく)古墳群 第31号墳(円墳)
ウマが埋められていた2号土坑と比較すると1号土坑の深さは半分もない。殉殺された人が葬られたと思われるが、現在の考古学の技術では証明できない。
ウマの殉殺復元図
ウマは古墳のかたわらで首を切られ、まず胴体が逆さまに土坑に落としこまれ、続いて頭部が臀部あたりに置かれた後に埋め込まれた。