神、人を喰う人身御供ひとみごくうの民俗学       六車むぐるま由実著

 人身御供ひとみごくうとは、人を神に捧げれる食べ物として犠牲にすることである。説話や昔話には、美しい娘や幼子が無残にも神にむさぼり喰われるれる様子がリアルに描かれている。 人身御供譚ひとみごくうだんを祭りのなかに暴力性を喚起する語りとしてとらえている。人身御供譚ひとみごくうだんは、暴力性をできるだけ排除することで成り立ってきた日本の農耕社会で、希薄化した生の実感を人々の身体に呼び覚ますものだと考えている。喰うか喰われるかという暴力性の発現を見ようとしたのは、行き詰まる近代文明のなかで、これからより豊かに生きていく術を見つけるためであると同時に、生のリアルな感覚、生きていることへの確かさを呼び覚ましたいという願いからである。

モースの食人説
 明治10年(1877)に東京大学教授として日本に招かれたモースは、大森貝塚(縄文後期〜晩期)の発掘調査の末に、人類学・考古学に関する日本初の学術論文となる研究報告書(1879)を東京大学から発行している。そこでモースは、貝塚から発見された人骨が、他の獣の骨と識別できない状態で混在していたことや、ひっかいたり切り込んだりした傷がいちじるしいことなどを有力な根拠として、これを「日本に人喰い人種がいたことを、初めてしめす資料である」と主張した。同年に発表された「日本太古の民族の足跡」では、日本人はアイヌなどとの複合民族だとした上で、貝塚を形成し、しかも野蛮な食人風習(カニバリズム)を行っていたのは、温厚なアイヌではなく、先住民の「プレ・アイヌ」だと述べている。

●明治21年(1888) 土佐の民間の考古学者、寺石正路
 食人の風習は神武以前のことであって、日本国が始まって以降はそんな野蛮な習俗が行われていたはずがない。だから、食人は、神武東征によって征服されたまつろわぬ人々の風習である。

●明治28年(1895) 石器時代人を伝説上のコロボックル説を主張した人類学者、坪井正五郎
 貝塚の遺物の分析から、コロボックルの食べ物として、魚介類の他、クジラ、イノシシ、シカなどの哺乳類に並べて「ひと」が挙げられている。食人は、先住民であるコロボックルが日本人ともアイヌとも異なる野蛮な人種を特徴づける習俗としている。

●明治32年(1899) 坪井の弟子でありながら石器時代人をアイヌ説の立場をとった、鳥居龍蔵
 日本の石器時代人に食人風習があったことは、大森貝塚だけではなく日本の他の貝塚から発掘される遺物によっても証明できるとしている。

 コロボックル説にしろアイヌ説にしろ、モースの食人説は、日本人種論の展開のなかで、受け入れられていった。日本人種論では、日本人の祖先による食人は決して肯定されることはない。食人はあくまで野蛮で未開な他者(アイヌ、コロボックル)の習俗であって、それと対比させることによって、平和で優秀な日本人の姿をよりいっそう強調する論法がとられた。

皇居の「人柱」事件
 
大正14年(1925)6月24日『東京日日新聞』朝刊に、「宮城二重やぐらの地下から立姿の四個の『人柱』現はる」という見出しの記事が掲載された。
 大正12年の関東大震災で倒壊した皇居の二重やぐらの改修工事中に、工事に携わっていた人夫のつるはしがカチンという音をたてて何かにぶつかった。これは何かと思って人夫がそこの赤土を取り除いてみた。すると、彫刻のように人骨が頭、胴、手足等全部そのままで両手は組合せたかの如く直立していた。付近を掘り下げると一定の間隔をおいて何体もの人骨が同様の立ち姿で埋まっていた。しかも、それらの人骨の頭の上には、古銭が一枚ずつ載せられていた。人骨はその後も続々と新たに発掘され、6月29日には十六体を数えるまでに至った。

 城や橋、堤の建設にまつわる人柱は、「殺す」もしくは「生き埋め」にすることによって生じると考えられた呪力に対する信仰であった。
 人柱事件を契機にして組まれた『中央史壇』の「生類犠牲研究」の特集では、殉葬(王や夫の死にともない、臣下や妻が生きたまま死者とともに墓に埋められるという習俗)や人身供犠(人身御供ひとみごくうの形跡のある祭)や食人、動物供儀といったイケニエに関するさまざまなテーマが幅広く取り上げられ、歴史学、考古学、民俗学、宗教学などの専門家が活発に議論を繰り広げた。これは、近代化という目標を達成し、デモクラシーへの意識が芽生えた大正という時代の気運によって生み出された。

 昭和9年(1934)5月に、皇居の坂下門近くから五体の人骨が古銭とともに発見されるという事件が再び起こるが、「人柱」として騒がれることもほとんどなかった。戦時体制へと突き進む社会状況が何らかの影響を及ぼしていた。