影の剣法請負い人阿郷十四郎 永井義男著
中野の宝仙寺の宝物であった象の頭骨をめぐる時代小説である。
十一代将軍の
なまはんかな金品を贈っても見向きもされない。ひねりのきいた珍品として、中野村の宝仙寺の宝物である象の頭骨がねらわれた。初め、宝仙寺から五十両で買い取ろうとしたが、宝仙寺から断られた。そこで一計を案じ、宝仙寺から象の頭骨を一ヵ月のあいだ借り出し、その間にそっくりの偽物を作る。そして、本物は珍奇な進物にし、偽物を返却してくるつもりであった。
中野村の名主、十二代堀江
宝仙寺の象の頭骨
享保十三年(1728年)、八代将軍吉宗の注文により、清の商人
オスのほうは翌年享保十四年三月十三日、長崎を出発して陸路、京都に向かった。ベトナム人の象使いふたり、清人の
四月十六日、大阪に到着。
四月二十六日、京都に到着。
四月二十八日には御所に参内して、時の
五月二十五日、江戸に到着。長崎から江戸までおよそ二ヵ月(74日)の道中で、さらに江戸に到着してからも、象は見物した人々に強烈な印象を与えた。
五月二十七日、象は江戸城に入り、吉宗が謁見した。
その後、象は浜御殿(現在の浜離宮)で十三年間飼われていたが、幕府はしだいにもてあますようになり、また吉宗も飽きてしまったのであろう、寛保元年(1741年)四月、中野村の農民源助に下げ渡し、飼育を命じた。
源助は本郷村(中野区)の
源助としてはたんに象を飼育しているだけではとても割りにあわないため、せっせと副業に励んだ。象小屋に見学に来る人々からは木戸銭を徴収し、さらに象の糞を乾燥させてはしかの妙薬として売りさばいた。
こうして、象は源助にとって厄介の種であると同時に、金もうけの種でもあったのだが、寛保二年十二月、中野に来て一年八ヵ月で象は死んでしまった。死んだ象の皮は幕府が召し上げたが、骨と牙は源助に下げ渡された。
源助の死後は、女房の弟に受け継がれ、そして、寛延二年(1749年)、名主の九代堀江
安永八年(1779年)、十一代堀江
昭和二十年(1945年)五月二十五日、戦災で焼失した。