影の剣法請負い人阿郷十四郎       永井義男著

 中野の宝仙寺の宝物であった象の頭骨をめぐる時代小説である。

 十一代将軍の家斉いえなりは天保八年(1837年)四月に将軍職を退いて江戸城の本丸から西丸に移り、家慶いえよしが十二代将軍となった。しかし、家斉は将軍職を退いたとはいえ、西丸にあって大御所と称し、依然として政治の実権を握っていた。家斉は天下泰平の世における独裁者だった。家斉の将軍時代、大御所時代を通じて、世に贈収賄が横行した。贈賄がすべてを決定し、解決したといっても過言ではなかった。幕府の役職にいたっては、金品で「買う」のが常識となった。

 なまはんかな金品を贈っても見向きもされない。ひねりのきいた珍品として、中野村の宝仙寺の宝物である象の頭骨がねらわれた。初め、宝仙寺から五十両で買い取ろうとしたが、宝仙寺から断られた。そこで一計を案じ、宝仙寺から象の頭骨を一ヵ月のあいだ借り出し、その間にそっくりの偽物を作る。そして、本物は珍奇な進物にし、偽物を返却してくるつもりであった。
 中野村の名主、十二代堀江卯右衛門うえもんと宝仙寺の住職が四谷の剣術道場の用心棒、阿郷十四郎に本物と偽物のすり替えが行われる前に、象の頭骨を取り戻してほしいと依頼した。阿郷十四郎の活躍により無事に本物の象の頭骨を奪い返し、偽物を賄賂の進物にするというストリーである。

宝仙寺の象の頭骨
享保十三年(1728年)、八代将軍吉宗の注文により、清の商人鄭大威ていたいいが象のつがいを長崎に運んできた。その象は交趾こうち(ベトナム)の広南かんなんという場所からつれてこられたもので、オスが七歳、メスが五歳だった。長崎に二頭が到着したものの、メスはすぐに死んでしまった。

オスのほうは翌年享保十四年三月十三日、長崎を出発して陸路、京都に向かった。ベトナム人の象使いふたり、清人の通詞つうじ(通訳)ふたりなどが同行していた。
四月十六日、大阪に到着。
四月二十六日、京都に到着。

四月二十八日には御所に参内して、時の中御門なかみかど天皇が謁見した。このとき、爵位のない者は天皇に拝掲することはできないというので、動物でありながら象は従四位に叙せられ、「広南従四位白象かんなんじゅしいはくぞう」と称した。天皇の前で、象は前足を折ってあいさつした。

五月二十五日、江戸に到着。長崎から江戸までおよそ二ヵ月(74日)の道中で、さらに江戸に到着してからも、象は見物した人々に強烈な印象を与えた。
五月二十七日、象は江戸城に入り、吉宗が謁見した。

その後、象は浜御殿(現在の浜離宮)で十三年間飼われていたが、幕府はしだいにもてあますようになり、また吉宗も飽きてしまったのであろう、寛保元年(1741年)四月、中野村の農民源助に下げ渡し、飼育を命じた。
 源助は本郷村(中野区)の成願寺じょうがんじの裏手に象小屋を作って、そこで象を飼育した。幕府から養育金はあたえられたものの、象の食欲はけたはずれである。一日に、新鮮な菜っ葉二百斤(1斤=160匁=600g)、笹の葉百五十斤、青葉百斤、芭蕉二株、大唐米(赤飯)八升、水は一度に約二升、あんなしの饅頭まんじゅう五十、だいだい五十、九年母くねんぼ(東南アジアから中国南部原産のミカン)三十をぺろりとたいらげる。ときには大豆を煮て、これを冷やして食べさせ、青草がない季節には、もみに茎や穂をまぜあたえ、またわらや大根などを食べさせることもある。さらに象が酒を好むことから、時には酒も飲ませてやらねばならない。
 源助としてはたんに象を飼育しているだけではとても割りにあわないため、せっせと副業に励んだ。象小屋に見学に来る人々からは木戸銭を徴収し、さらに象の糞を乾燥させてはしかの妙薬として売りさばいた。
 こうして、象は源助にとって厄介の種であると同時に、金もうけの種でもあったのだが、寛保二年十二月、中野に来て一年八ヵ月で象は死んでしまった。死んだ象の皮は幕府が召し上げたが、骨と牙は源助に下げ渡された。
 源助の死後は、女房の弟に受け継がれ、そして、寛延二年(1749年)、名主の九代堀江卯右衛門うえもんが、金八両三分と鐚銭びたせん八貫四百文で骨と牙を買い取った。

安永八年(1779年)、十一代堀江卯右衛門うえもんのとき、堀江家から宝仙寺に譲り渡された。

昭和二十年(1945年)五月二十五日、戦災で焼失した。