縄文の思考 小林達雄著
人類文化600万年におよぶ歴史の大部分が第一段階の旧石器時代に属し、第二段階以降は1万5000年そこそこということになる。人類文化の第一段階の基本は遊動的生活である。旧石器人は、特定な場所にこだわらなかったのだ。どの場所とも同程度の関係を結び、一箇所に固定しようとする意識は、もとより稀薄だったのである。これが、遊動生活の実態であり、停留場所との関係はまさに行きずりの一回性、偶然性が強かったのだ。 日本列島旧石器時代の最終段階の細石刃文化は、大陸側と広い文化圏を共有していた。細石刃文化の遺跡は、大陸との北の窓口に当たる北海道に多く、大陸側にも遺跡が多数あり、極東全体に活力があった。そうした状況が、日本列島における人類の文化の第一段階から第二段階への飛躍の気運を呼びこみ、土器という重要な道具を発明することにつながり、縄文革命の引き金となった。
土器の登場は重要である。土器は粘土製でありながら、加熱することで、水に溶けない容器となった画期的な成果品である。これは土器の技術的革新性である。土器を持たない未開民族も、必ず何かしらの容器は持っている。獣の皮で作った皮袋であったり、木の皮を剥いでそれを組み合わせた樹皮籠であったりする。旧石器時代にも、こうした容器が作られていたのは間違いない。だから土器は、それら既知の複数要素総合して新しい道具に仕立てた点こそ、重要な技術革新の意義がある。さらに、土器は造形的な観点においても、画期的な意義がある。土器は最初に用意した素材の量に継ぎ足し、継ぎ足ししながら、とどのつまりは増量によって最終的目的の形態を実現するのである。粘土造形では、継ぎ足しの工程で気に入らなければ、あるいは理想とするよりよきかたちの追求のために、いくらでも加除修正を自由に行うことができるのだ。イメージにより近づけるための意図に応えてくれる柔軟性がある。縄文土器の個性は他に類をみないほど際立っている。縄文土器は器形と文様が無限とも言うほどにバラエティーに富み、口縁が突起を持ったり、波状にうねったりする。縄文土器が底から口を結ぶき器壁の変化を見せるプロポーションは、もう一つ際立った特徴である。小さめ底にもかかわらず、大きく立ち上がる胴本体をのせたりするものだから、不安定極まりない。まるで容器としての本分を度外視しているのだ。
縄文土器の内外面には、しばしば、食物の残りかすが焦げついて薄膜状に付着したり、すすの付着あるいは火熱による二次的な変色が底部に見られたりする。容器の形態をしてはいるが、単なるモノを一時的あるいは長期にわたって貯えたりしたものではなく、ほとんど全てが食物の煮炊き用に供されたことを物語っている。煮炊き料理によって、植物食のリストが大幅に増加した。植物食の拡充充実は、縄文人の食生活の安定に大いに寄与するところとなった。土器を用いた煮炊き料理がもたらした食糧事情の磐石の安定化が、遊動的生活生活から定住的な生活様式への転換を可能にした。定住的ムラの出現こそ新しい縄文的世界の展開を保障した。自然の中に新たに築いた人工空間としてのムラは、自然秩序からの分離独立の具体的な宣言であり、縄文人の人間としての主体性確立の象徴である。ムラの中にはまず第一に寝起きするための、にわか作りではない十分に耐久性のある住居が建てられ、日常的に排出するゴミ廃て場、食物を保存する穴蔵や倉庫、死者を埋葬する共同墓地、その他マツリをはじめとする公共的な行事用の広場等々が、次々と設けられていった。ムラに住み続けるにつれて、さまざまな施設がその種類と数を増やし、人口色を強めてゆくのである。こうして占有した空間は、ムラの周囲に広がる自然との差異をくっきりと浮かび上がらせた。自然と対峙しながら、人間だと自覚するきっかけを獲得したのである。近代以降の自我意識に先立つ、人間意識の萌芽である。自然と一線を引いた縄文人の人間宣言である。
縄文時代の狩猟漁撈採集は、山海の恵みを専ら享受する構えをとる。縄文人が食用にした動・植物のバラエティーは尋常ではない。食料を極端に少ない特定種に偏ることなく、可能な限り分散して万遍なく利用することで、いつでも、どこでも、食べるものに事欠かない状態を維持できるのだ。食糧事情の磐石の安定を保証するにとどまらず、自然との調和をいささかも乱すことなく、生態学的な調和をしっかりと維持する効果につながっている。まさに、自然の秩序の中の一員として生きた縄文人の生き方の重要な意味がここにある。一方の農耕はごく少数の栽培作物に集中するが故に、冷害旱魃などの異常気象で不作ともなると、たちまち食糧不足を招き、餓死者続出ともなる。あくなき増収を目指して、耕作用の田畑を拡大し、一方的に自然の領域を侵し続ける方針を貫き通してきたのだ。ムラの外に、もう一つの人工的空間としての農地すなわちノラを設けて、さらに拡大して止むことはない。そこからしばしば自然を征服する、克服するという意識と態度を鮮明にするのだ。自然を利用する効率が問題となり、投入した時間と労働力の見返りの最大効率を目論むにいたる。やがて産業革命を経て、ヨーロッパ流の近代合理主義発達の契機へと膨張し続け、現代の深刻な危機を演出する元凶ともなった。一方の縄文人の選択は、日常生活の拠点地としてのムラの周囲であるハラを生活圏とし、自然と密接関係を結ぶにいたる。縄文人が一万年以上こうした自然との維持継承するなかから、縄文世界観が醸造され、次第に日本人的心の形成の基盤となったのである。