女帝と詩人        北山茂夫著

 本のタイトルの女帝は持統天皇、詩人は柿本朝臣人麻呂をさしています。

 天武天皇は688年9月9日にその生涯を閉じました。皇太后(持統天皇)はただちに、称制を宣し、また命を下して飛鳥浄御原宮の南庭に殯宮もがりのみやを造営させている。翌10月2日に大津皇子を謀反の罪で逮捕している。逮捕の翌日には、皇太后の命により大津皇子は訳語田おさだの邸で自害し、妃の山辺皇女もそれに殉じた。時に24歳であった。
 皇太后によって執行された天武天皇の殯宮もがりのみやの儀は、2年3ヶ月におよんだ。大津皇子事件にも現れたような皇位継承にからまる宮廷の動揺を、この儀礼のなかに、鎮静に導き、皇権の安定をもたらそうとしたものである。この皇太后の治世に、宮廷詩人柿本人麻呂が登場してくる必然性があった。
皇太后が天武天皇にささげられた挽歌
やすみしし が大君し 夕されば したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳かみをかの 山の黄葉もみちを 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやにかなしみ 明けくれば うらさび暮らし 荒栲あらたへの 衣の袖は る時もなし
                                    (巻2−159)
わが大君は、夕方になるときっとご覧になっている。明方になるときっとお尋ねになっている。その神岡の山の黄葉を、今日もお尋ねになることであろうか。明日もご覧になるであろうか。その山をはるかに見やりながら、夕方になるとむしょうに心悲しく思い、明方になるとただ心寂しく時を過ごして、粗い喪服の袖は乾く時もない。
神岳  橘寺南東にあるミハ山
  藤や葛で織った粗い着物(喪服)
 689年4月に、皇太子草壁皇子が夭折しました。草壁皇子には当時七歳になる軽皇子があった。草壁皇子を失った皇太后は、軽皇子を将来の、適当な時期に皇嗣こうしにしようと期するところがあったであろう。草壁皇子の殯宮もがりのみやの儀は、盛大に行われた。柿本人麻呂は、はじめて献呈の挽歌を制作し、舎人たちの哀悼のうたが多く残されている。

 690年1月、皇太后は称制をすてて、皇位について持統天皇となる。即位後半年を経て、政治の新しい方向をうち出した。人々に衝撃を与えた最大の事項は、高市皇子を太政大臣に任じたことであろう。草壁皇子の遺児、軽皇子の擁立を持統天皇は深く内心に期していたであろう。高市皇子を、権力のそとに、のけものにしておくことは、天武の諸皇子、貴族大官の帰趨からいって、危険である。むしろ、高市皇子をおのれのもとに強くとらえておくにしくはない、という大局からの政治的判断が、即位後の持統天皇の心境を左右したようだ。

 持統天皇は藤原京の造営を通して貴族官人の力を結集し統一し、それによって権力の基礎を固めたいと熱望していた。壬申の功臣たちによって固められた太政官は、そのための直接的な支えであった。690年9月の紀伊行幸、692年3月の伊勢行幸は、藤原京造営のための予備行動であった。
 巨勢道こせじに現れた「図負ふみおへるくすしき亀」が朝廷に献上されたのを祥瑞しょうずい(吉兆)として691年9月に造京の大事業にとりかかり、藤原京は694年にほぼ完成しその年の12月に持統天皇は飛鳥浄御原宮から新しい皇居に移った。
 「藤原宮の役の民の作る歌」は持統天皇の命令による宮廷詩人の制作にかかわる儀礼の歌であり、作風、内容からいって柿本人麻呂の作だと推定される。
  藤原宮の役の民作る歌
やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 荒たえの 藤原が上に 食国おすくにを したまはむと 都宮みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなべに 天地も 寄りてあれこそ 磐走いわばしる 近江の国の 衣手ころもでの 田上山たなかみやまの 真木まきさく のつまでを もののふの 八十氏川やそうじに 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると さわぐ御民みたみも 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る 日の御門みかどに 知らぬ国 よし巨勢道こせじより わが国は 常世とこよにならむ 図負ふみおへる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の河に 持ちこせる 真木まきのつまでを 百足ものたらず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば かむながらならし
                                                 (巻1−50)
天下を統治なされるわが大君、天空高く照らす日の皇子(持統)、藤原の地で国をお治めになろうと、宮殿を立派に営みなさろうとして、神のままに思し召されると、天地の神々も心服しておられればこそ、近江国の田上山の檜の用材を、宇治川に浮かべ流している。それを取ろうとして忙しく立ち働く天皇の御民も、家郷を忘れ、一身を顧みることもなく、鴨のように、水に浮んでいて、(「自分らがいま造る御門に、知らない異国も寄こせ」という、大和の巨勢道より、「わが国は、常住不変の国になるだろう」という瑞兆を甲に画いた神秘な亀が、即位なされた女帝の新たな御世を祝って出ずという)泉の川に持ち運んだ檜の角材を、筏にくみ、その上流に運ぶのであろう。先を争って励んでいるのを見ると、これは、わが大君が神のままの御方であられるからであろう。

 689年かその翌年の春、持統天皇は、飛鳥の都を出て、近江国志賀へ行幸した。みずからの亡父(天智天皇)にゆかりの深い崇福寺を訪れたのである。崇福寺は、大津宮から少し離れた西の山中にあったため、壬申の年の兵火から免れることができた。持統天皇は、行幸先で、柿本人麻呂に、歌をたてまつらしめたのであろう。
  近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麻呂朝臣の作れる歌
玉たすき 畝火うねびの山の 橿原かしはらの ひじりの御代ゆ れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに あめの下 しろしめししを 天みつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに おもほしめせか 天離あまざかる ひなにはあれど 石走る 近江の国の さざなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇すめろぎの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立つ 春日のれる ももしきの 大宮処 見れば悲しも 
                                                 (巻1−29)
   反歌
さざなみの 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ 
                                                 (巻1−30)
さざなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも
                                                 (巻1−31)


近江の海 夕波千鳥 が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
                                                 (巻3−266)
畝傍山のふもと、橿原で即位された天皇の御代以来、神としてこの世に姿を現された歴代の天皇が、次々に大和で天下を治められたのに、その大和を捨てて奈良山を越え、いったいどういうお考えで、畿内を離れた田舎なのに、近江の国の大津の宮で天下を治められたりしたのだろうか。その天皇の宮殿はここだと聞くけれど、御殿はここだと言うけれど、春草の生い茂っている、春の日の霞んでいる荒涼とした宮殿の廃墟を見ると悲しいことだ。