出雲と大和 古代国家の原像をたずねて        村井康彦著

 古代の出雲世界とは何だったのか。本書はその答えを求めて各地を訪ねた遍歴の軌跡である。そのなかで得た、出雲理解の三つのデータをあげている。

 一つは、三輪山の存在である。山そのものが神体とされ、拝殿はあっても本殿はない、という古くからの祭祀=信仰の姿を現在も伝えている。その祭神・大物主神が出雲系の神であることだ。なぜ、大和に出雲なのか。

 二つは、八世紀はじめ、出雲国造が朝廷に出かけて奏上した神賀詞(かむよごと)のなかで貢置(たてまつりおく)を申し出た「皇孫(すめみま)の命(みこと)の近き守神(まもりがみ)」が三輪山の大神の神、葛城の高鴨の神、伽夜奈流美(かやなるみ)の神、宇奈堤(うなて)の神、いずれもが出雲系の神々であったことである。出雲国造がいう大和朝廷の守神となりえたのは、大和朝廷以前から大和に存在していた神々だったからである。

 三つは、『魏志倭人伝』で知られる倭の女王、邪馬台国の卑弥呼の名が、『古事記』『日本書紀』に全く出て来ないことである。実は『日本書紀』の編集者たちは『魏志倭人伝』の内容も卑弥呼の存在も熟知していたのである。にもかかわらず卑弥呼の名を出さなかったのは卑弥呼が大和朝廷と無縁の存在であり、大王=天皇家の皇統譜に載せられるべき人物ではなかったからである。したがって邪馬台国は大和朝廷にはつながらず、その前身ではなかったということになる。

 以上の三つのデータを重ね合わせると邪馬台国は出雲勢力の立てたクニであった。

 『魏志倭人伝』を読み解くことによって発掘できた邪馬台国の「四官」体制は、邪馬台国が出雲連合勢力につくり出されていたことの何よりの証左である。

 『魏志倭人伝』の記述から邪馬台国は他の国とちがい、四官が存在していたことである。すなわち

   邪馬台国に至る。(中略)官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という。

 邪馬台国では国王(女王卑弥呼)の下に「官」が四つ設けられていた。天皇名(和風諡号)の頭三文字が地域の名を指すと仮定すれば、それは宮殿の所在地か御陵の所在地が考えられる。宮殿の所在地とした場合、垂仁天皇と崇神天皇がどちらも磯城とされるので重なってしまう。したがって地域の重なりのない御陵の地とするのが適切であろう。邪馬台国(大和国)は領域を四つに分け、イコマ(生駒)、ミマス(葛城)、ミマキ(三輪)の三官で周囲三方、というより事実上四周を固め、ナカト(中処)の官がそれらに囲まれた中央部を担っていた。

四官 読み   和風諡号(わふうしごう)   宮殿 御陵 地域  豪族
伊支馬 イコマ 11代 垂仁天皇 伊支米入日子伊沙知命 いくめいりひこいさちのみこと 磯城玉垣宮 菅原御立野(奈良市尼辻西町) 生駒山を含む奈良西北部一帯 物部氏
弥馬升 ミマス 5代  孝昭天皇 御真津日子訶恵支泥命 みまつひこかえしねのみこと 葛城掖上宮 掖上(わきがみ)博多山(御所市三室) 奈良西南部の葛城一帯 鴨氏
弥馬獲支 ミマキ 10代 崇神天皇 御真木入日子印恵命 みまきいりひこいにえのみこと 磯城水垣宮 山辺道勾之岡(まがりのおか)(天理市柳本町) 奈良三輪山の麓、天理から桜井にかけて 大神氏
奴佳鞮 ナカト           中処(なかと)、真ん中の場所、すなわち中央部  

邪馬台国の四官

 卑弥呼の宮殿をふくむ邪馬台国の中枢は、平野部の微高地に立地する環濠集落の中に存在していたと思いたい。纏向遺跡は山に近く、また全体を取り巻く環濠も見つかっていないことなど、候補地の条件に欠ける。多数出土して話題になった桃の実も道教と結びつけられ、これこそ卑弥呼が道教的な呪術を行っていた証拠とみなされているが、中国でも三世紀の半ばは道教の萌芽期であり(成立期は五〜六世紀)、時期尚早の感がある。道教と結びつけるのであれば、五〜六世紀に下げて理解すべきではなかろうか。纏向遺跡は弥生時代の王都というより、古墳時代の宮都に関わる遺構ではなかろうか。立地条件に照らして注目されるのが唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町)ではないか。纏向遺跡から北西にあり、まさしく奈良盆地の中央部の微高地に位置する環濠集落だったからである。唐古・鍵遺跡は縄文期から古墳時代にかけて存続していたが、卑弥呼が共立されて王となる以前の弥生中期には衰退していたとする見方が支配的である。しかし古墳時代にも、埋もれていた環濠を復興して存続した事実が報告されており、理解はなお流動的である。これには領域が現在の市街地にかかっていて未調査の個所があることも無関係ではなかろう。また衰微の理由とした洪水による被害があげられるが、それを避けて居住地がより高い南の微高地に移動したことも考慮に入れる必要があろう。唐古・鍵遺跡が卑弥呼の王宮のあった邪馬台国の王都とみる考え方は少数派であるが、遺跡の範囲をひろげることで検討の余地は十二分にあると考える。

 卑弥呼が没した頃、倭国の争乱に乗じて新たな勢力が東に向けて移動しはじめ、やがて邪馬台国は激しい攻撃にさらされることになる。『魏志倭人伝』からは知ることができない邪馬台国最後の状況は、じつは『日本書紀』が克明に記録していたのである。それがいわゆる「神武東征」に他ならない。