骨が語る日本人の歴史          片山一道著

 著者は自然人類学の研究を専門にし、考古学の遺跡から出土する古人骨や動植物の遺残体などを調査してきた。

旧石器時代

港川人は、八重瀬町(旧具志頭村)の石灰採石場で、1970年に発見された約18000年前の化石人骨群である。日本で見つかった旧石器時代人化石のなかでは唯一、全身の骨が残り、顔立ちを復元できるほどに頭骨がよく残存する。港川人の身体特徴は、身長が成人男性で153cm、成人女性で144cmほどと推定でき、非常に背が低い。頭蓋骨のみならず、全身の骨も骨太の特徴を有する。顔立ちは、大造りの寸詰まり顔。頬骨(きょうこつ)が強く外側に張りだし、顔幅が大きい。下顎(かがく)も幅広く、エラが発達する。眉部(びぶ)が大きく膨らみ、目もとが窪むから、横顔は案外、彫が深い。強力な側頭筋を擁して、ハードで硬いタフな食べ物を常食にしていたのだろうか。歯の表面の磨り減りは激しい。


 「港川人」は、中国大陸にある同時代の地層から発見された、華北の北京周口店遺跡で見つかった「山頂洞人」よりも、華南の柳州で見つかった「柳江人」のほうによく似ていると指摘されている。その当時の日本列島人は、「柳江人」の流れをくむ人々が日本列島の旧石器時代人となり、それが「小進化」して縄文人になったのだろうと言われていた。(縄文人南方起源説)

 最近の研究では「港川人」をもって、その当時の日本列島旧石器時代の代表選手とみなすのは難しいようだ。「港川人」の相貌を再検討した海部陽介らの研究や縄文人骨についてミトコンドリアDNA型を分析した篠田謙一らの研究により定説を再考する気運が生まれた。いまのところはまだ、本州域では旧石器時代人の発見例は皆無に近い。沖縄の「港川人」化石を金貨玉条のようにして、「縄文人南方起源説」は見直しがせまられている。


縄文人

まだ、陸続きに近い状態だった旧石器時代に、東アジアの大陸方面から「吹きだまり」のように集まって来た人々が混合融合し、豊穣な自然に恵まれた「縄文列島」という舞台で、新しい革袋のなかで新しい酒が醸造するようにして、新しい人々、つまり縄文人が形成されたのである。縄文人は日本列島で生まれ育ったのである。地球温暖化による「縄文海進」の結果、日本が列島化した縄文時代には、大陸世界とは、ほとんど没交渉だった。だからこそ、異貌異形の縄文人が生まれることになり、独特の人間の営みが育まれた。縄文文化とは、土器文化や漁撈文化などを開花させた生活の総体。日本人の基底にあるメンタリティや心象風景が息づいた時代なのだ。


弥生時代

倭人は、縄文人が各地域でさまざまに変容した縄文系「弥生人」を基盤とした。そこに、北部九州から日本海沿岸部にかけて住み着いた渡来系「弥生人」が重なった。続いて、そのあたりを中心に両者が混合して生まれた混血「弥生人」が加わった。これらが混成した総体こそが「弥生人」、あるいは倭人なのである。ことに西日本(北部九州、瀬戸内海、山陰、近畿)では、弥生時代の後期ごろに世相が大いに乱れて(倭国の大乱)、いっそう複雑な「弥生人」の人間模様が生まれたのではないか。そうだとすれば、倭人あるいは「日本人」の内訳は、一方で縄文人の流れを強く受け継ぐ人々がいた。その対極に渡来人の系譜につながる人々がいた。そして、さまざまな形で混合する大勢の人々がいた。世代を重ねるごとに曼荼羅模様を描くように混合してきたわけだ。


古墳時代

古墳が出現するのが三世紀、最盛期となるのが五世紀、終末期を迎えるのが七世紀ということで、三世紀から七世紀にかけての時代である。いちばん最初の国家の成り立ちを、三世紀の邪馬台国だと考える説と、五世紀の倭の五王時代と考える説と、七世紀後半の律令国家の確立期と考える説があり七五三論争と呼ぶ。

身体特徴は、弥生時代と異なり、縄文人の面影が消えていくことである。つまり、ひどく骨太で頑丈、鼻骨と下顎骨(かがくこつ)が目立ち、彫の深い横顔をした人骨が、ほとんど見られなくなる。のちの日本人に共通する質の「中顔、中頭、中鼻、中眼、中顎」を特徴とする「日本人顔」が多くなる。また体形や体格についても骨太感が強くなく、「胴長短脚」の傾向をもつ「日本人的体形」が多くなる。背丈などの面で階層性のようなものが表れてくる。奈良周辺の大型古墳の被葬者たちは一般に、当時としては非常に背が高い。各地域の豪族古墳の被葬者は一様ではないが、それよりも明らかに平均身長は低い。さらに山あいにしつらえられた横穴墓の被葬者たちは鎌倉時代から江戸時代の人々なみに背が低い。また、円筒埴輪棺などの被葬者は一般に、非常に背が低い。

池田次郎(京都大学)によると、鎌倉時代や江戸時代に背丈が低めに推移したのは、封建制による閉塞的な社会情勢のもと、通婚圏が狭まり「近交弱勢」が影響している。
近代人になり、いくぶんか、背丈が伸びはじめたのは通婚圏のしばりが緩んで「雑種強勢」による。
戦後、日本人の身長が急に伸びたのは、乳幼児期の栄養条件が要因かもしれない。とりわけ乳製品の普及と、それに伴う離乳年齢の大幅な短縮。それにより成長パターンが西欧人型に近づいたのではないだろうか。