ホモ・サピエンスはどこから来たか     馬場悠男ひさお

 人類は500万年におよぶ進化の歴史があり三度の大きな進化、発展を遂げている。猿人の登場はいまから500万年ほど前、原人の登場が180万年前ごろ、ホモ・サピエンスの登場は15万年前ごろというのがおおよその目安となる。現在、地球上にはただ一種、ホモ・サピエンスしかいない。ホモ・サピエンス以前の人類は17種とも、それ以上とも言われているが、ことごとく絶滅の道をたどってしまった。生き残りと絶滅、繁栄と消失、この明暗を分けたのは環境への適応能力である。ホモ・サピエンスは、環境の激変に遭遇したとき、さまざまな手段によって激変を克服して適応し、あるいは新たな環境を求めて移住するなど、勇気ある行動で困難を乗り越えてきた。

人類誕生

 1000万年前、アフリカ大陸の東部の下で、大規模なマントルの動きがあり、大地は東西に分かれはじめた。これが、グレート・リフト・ヴァレーである。周辺では火山活動が盛んになり、標高4000メートル級の山脈が出現した。キリマンジャロはその最高峰である。グレート・リフト・ヴァレーの出現は生物界に大きな影響をおよぼした。気象の激変、それにともなって環境が大きく変わったことだ。それまでは、大西洋の水分を含んだ偏西風が吹きわたり、この風が雨を降らせて、熱帯雨林が繁茂していた。しかし、グレート・リフト・ヴァレー周辺の山脈がこの風をさえぎってしまったため、グレート・リフト・ヴァレーの東側には雨が降らなくなり、一帯はしだいに草原に変わっていった。東側に取り残された類人猿の多くは、この環境の激変に適応しきれず、次々と死に絶えていくほかはなかった。ところが西側では熱帯雨林が存続したので、現在も、ゴリラ、チンパンジー、ピグミー・チンパンジーという三種類の類人猿が残っている。

 東側に取り残された類人猿のうちの一種はあるとき、二本足で立ち上がり、歩行を始めた。これが結果的には草原の暮らしによく適応することがわかり、彼らはしだいに草原へと生活の領域を広げていった。こうして、二本足で立ち上がった類人猿たちは生き延び、さらに繁栄へのきっかけをつかんだのだ。彼らこそ人類の最初の祖先だった。こう主張しているのが、フランスの人類学者イーヴ・コパンで、この物語を「イースト・サイド・ストーリー」と名付けている。

原人の出アフリカ

 原人には、180万〜140万年前ごろアフリカに住んでいた初期原人(ホモ・エルガステル)と、140万〜20万年前の主としてアジアに住んでいた後期原人(ホモ・エレクトス)が含まれる。2000年5月12日の新聞記事によると旧ソ連のグルジアのドマニシ遺跡の170万年前の地層から、アフリカの初期原人とよくにた頭骨二つを発掘したという。アフリカ以外の地で、170万年前の地層から原人の骨が発見されたということは、原人たちの「出アフリカ」は170万年よりもさらに前にアフリカから旅立ったということだ。原人たちは草原の暮らしに適応し、人口が増大し住む地域を広げなければならなっかった。食料を求めて住み慣れたアフリカの地を出て、ヨーロッパ、アジアなどユーラシア大陸へ広がっていった。原人は最初、アフリカ大陸を北上し、スエズ地峡を渡り、シナイ半島を抜けてユーラシア大陸に広がっていった。北へ向かった原人はさまざまな苦難と遭遇することになる。これまでに経験したこともなかったような寒さとも闘わなければならなかった。実際、今日につながる進化はヒトの祖先の寒冷適応の結果、もたらされたものが多いのである。

ホモ・サピエンスの起源

 ホモ・サピエンス(新人)の起源に関して二つの説がある。一つは多地域進化説。もう一つは単一起源説である。多地域進化説のほうは、アジア、アフリカ、ヨーロッパそれぞれの地域で、原人から旧人を経て新人へと進化を遂げたとする説。すなわち、すべての現代人は170万年前ごろに「出アフリカ」し、アジア、ヨーロッパなどの各地に拡散した後、それぞれの地域で独自な発展を遂げながら、新人へと進化したという説である。単一起源説は新人も、猿人、原人と同じようにアフリカで誕生し、その後、原人の世界拡散とおなじようにアフリカで誕生し、その後、原人の世界拡散と同じように、新人たちも二度目の「出アフリカ」をし、世界に広がっていったとする説である。

日本人の祖先はどこからやって来たか

 日本人は数万年前、そして紀元前後の弥生時代と二度に分けて、大陸から渡って来た人々の子孫である。はじめに渡来したのは歯が小さく立体的でメリハリのある顔立ち、四肢の末端が長いという特徴からもともとは東南アジアのスンダランド(現在のインドネシア付近は、アジア大陸と陸続きでありスンダランドと呼ばれる大きな陸地を形成していた)に住んでいた人々と考えらる。北方アジア人のように寒冷適応を受けていないという意味で、南方アジア人と呼ぶことができる。彼らが日本に定住して縄文人となった。さらに、アジアの北に向かい、寒冷適応して顔はのっぺり平坦で、ずんぐりした体つきの歯の大きい人々である北方アジア人がふたたび南下し、やがて日本に渡ってきた。これが弥生人のルーツである。

 つまり、日本人は、古い時代に渡ってきた、南方アジア人である縄文人の分布の上に、後に渡ってきた北方アジア人である弥生人が重なるように分布し、やがて複雑な混血を進め、今日に至っている。これが、国際日本文化センター名誉教授、埴原和郎はにはらかずろうがとなえる「二重構造説」である。