古代東アジア世界と日本        西嶋定生著

 「東アジア世界」とは中国を中心とし、これにその周辺の朝鮮・日本・ヴェトナムおよびモンゴル高原とチベット高原の中間の西北回廊地帯東部の諸地域をふくむものであるが、その領域は流動的であった。歴史的文化圏としての「東アジア世界」を構成する諸指標は、漢字文化・儒教・律令政治・仏教に要約できる。

 冊封(さくほう)体制は中国王朝と周辺国家との関係いおいてのみ成立するのでなく、それ自体はもともと中国王朝の国内的秩序体制であり、皇帝を頂点としてそれと貴族・官僚とのあいだに形成される君臣関係の秩序体制であった。それゆえ中国王朝と周辺国家との間に形成された冊封体制は、国内的秩序としての君臣関係の投影として、中国王朝が冊封関係にある周辺国家に対して臣節を要求し、行礼を期待した。臣節を背いたばあいには征伐が行われ、行礼のために文物制度が波及した。中国王朝と周辺民族の首長とが冊封関係をもつことは、前漢時代の初期から始まった。

 後漢王朝の光武帝の末年(57年)に倭の一小国である奴国(なこく)の使者に金印が与えられたことは、これまで楽浪郡を媒介にして間接的に中国王朝の影響を受けていた日本が、これによって中国王朝と直接的な接触を開始したことを示すものである。後漢王朝が倭奴国に金印を下賜したということは、これを統属国とみなして、今後の朝貢の場合にひつような上奏文の封印にはこの金印を使用せよという意味である。

 後漢の安帝のとき(107年)に、倭国王帥升(すいしょう)らが生口(せいこう)160人を献上して朝見を願った。このときに金印を使用されたかどうか判明しないが、おそらくは生口160人を献上するということを記載した国書が伝送され、それはかっての金印で封印されていたとも考えられる。そうであるとすればこの倭国王とは倭奴国王の後であるかもしれない。

 『魏志倭人伝』で、239年に邪馬台国女王卑弥呼は魏に遣使朝貢し、魏の皇帝は卑弥呼に制詔して親魏倭王に冊封し、金印紫綬を授けた。翌年、この冊封に対して卑弥呼は使者を派遣して上表して謝恩する。魏の皇帝から親魏倭王に封ぜられたということは、魏の皇帝から親魏倭王の爵位を下賜されたことである。それゆえここでいう倭王とは独立国である倭の君主という意味ではなく、魏の皇帝に臣属する倭王という意味である。卑弥呼と狗奴国とのとの間の交戦状態が勃発すると、卑弥呼に対して魏からは詔書が発布され、また檄文が与えられた。

 倭の五王の中国南朝の宋への朝貢は413年から502年までの90年間に13回の遣使朝貢が知られている。五世紀の倭国はみずから進んで中国王朝の秩序体制の中に定着させ、その権威のもとに支配の正統性を確保しようとしたのである。すなわち南朝鮮の百済・新羅・任那における倭国の支配権を中国王朝の秩序の中に位置づけ、かつ高句麗や百済の場合と同様に、中国南朝の宋と冊封関係になることを念願したものと考えられる。

 六世紀の初頭以来一世紀にわたって通交のとだえていた日本がふたたび中国王朝と通交するのは、隋(581年−618年)からである。600年(推古天皇八年)、第一回の遣隋使派遣が行われた。607年(推古十五年)、第二回の遣隋使は小野臣妹子で「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、云々」という国書を示して、煬帝の不興を買ったのはこのときである。隋王朝にとって、日本は化外慕礼(かがいぼれい)の国、すなわち隋王朝の秩序体制としての礼的世界の外にありながら、これを思慕して朝貢する蛮夷の国として理解されており、隋は日本を冊封していない。推古朝の遣隋使派遣は、新しい秩序を摂取するために隋王朝への接近が計画された。国内体制の展開は、従来のカバネ秩序から、天皇制的官僚制への展開であり、カバネの中の優越した地位にすぎなかった大王(オオキミ)が、カバネ秩序を超越した絶対者へと上昇して天皇(スメラミコト)に成長することである。従来、大王の墳墓として造営されていた前方後円墳は、その形式において他のカバネ所有者から区別されるものではなかったが、推古朝にいたって天皇陵および官位者の墳墓が中国式の方墳に変化するこれに対応すすものである。対外的には新羅・百済を朝貢国としてそれに君臨しようとする、日本を中心とする小冊封体制の維持の問題がある。日本は中国王朝の秩序体制外に自己の体制を形成しようとしながらも、他方では新しい秩序を求めて、朝貢形式による中国王朝体制への接近を開始する。

 日本と唐(618年−907年)との関係は遣唐使を媒介として展開される。最初の遣唐使は630年で、以後18回(うち中止3回)に及び、その最後は894年の遣唐大使菅原道真の任命とその辞退によって終わる。日本と唐との関係は、日本と隋との関係のあり方を踏襲したものである。日本は唐帝国の冊封体制の外部に存在する朝貢国として位置づけられ、遣唐使は蕃客の礼によって処遇される。そして日本も朝貢の礼をつうじて唐王朝の秩序に接近しようとする。それゆえ唐の文物制度は主体的に摂取される。多くの学問増や学生が遣唐使に随伴して渡唐し、長年月その地にとどまって唐の文物制度を学んだ。新しき日本の国家体制は、律令体制という形態となって実現する。