源氏物語 大野
天皇に影響力を及ぼし行政を自分の思うように行おうとする権力者たちは、自分の娘を天皇の側にすすめ、その娘が天皇の子を生むことを待って、その幼少の子供を次の天皇の位につけ、自らは天皇の後見役につき、行政上の力を得ようとした。それには、まず、自分の娘が天皇の寵愛を受けなければならない。そのためには娘自身があらゆる意味で魅力的である女性でなくてはならなかった。そこで娘の養育掛、遊び相手、相談相手、教師として役立つ有能な女性が求められた。権力者たちは、すぐれた女性がいると聞けば、それを召し出し、娘の側に仕えさせようとした。そうした中に清少納言や紫式部がいた。
清少納言の『枕草子』は『源氏物語』の仮想敵であった。清少納言の宮中での派手な機敏な対応は女房たちの羨望の的であった。清少納言より約十年くらい遅れて宮廷の人となった紫式部にとって、先輩清少納言の一挙手一投足は決して無視できるものではなかった。その清少納言の仕えていた定子皇后の兄藤原伊周(これちか)・隆家(たかいえ)は、紫式部の仕える藤原道長の謀略と攻撃のもとに失脚し、二人は配流・召還・宥免(ゆうめん)という屈辱にまみれ、定子皇后は御輿(みこし)が入らないような小さな門の臣下の家に行啓して御産しなければならなかった。にも拘らず、その中で生きた清少納言はその悲運を無視し、『枕草子』の中に一言だに泣き言を記さずに世界から消えていった。
紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは、おそらく寛弘三(1006)年の12月29日であった。自己の存在価値として心の底で最も自信を持っていた学識を生かして宮廷に出仕し、中宮彰子の教師という役目をつとめることは、彼女に生存の根本的な満足を与えるものであった。のみならず、最高の権力者藤原道長の懇望に応じる出仕は、仕官懸命の父親為時や弟惟規(のぶのり)にとって何かと好ましい事態が期待できるのではないかと彼女が考えなかったとはいえない。ところが、それは、かねてから親しく交際して来た中務(なかつかさ)家の具平(ともひら)親王(村上天皇の第七皇子)その他の文学の仲間からは、権力者道長への屈服、現世的出世・栄耀(えいよう)への転向と見られることである。それも彼女の脳裏に去来することであったに違いない。
宮廷という場所は、誰でもそこに加わってみずから振舞ってみたい華麗な晴れがましい場所だった。『紫式部日記』で宮廷の儀式を叙述するときに、賛嘆の言葉を用いていることからそれは推測できる。寛弘五(1008)年の4月13日に紫式部は中宮彰子の出産のための里帰りに藤原道長の土御門(つちみかど)邸に随行する。この土御門邸への随行は、紫式部の一生にとって極めて重要な意味を持つに至った。それは道長との接近と乖離(かいり)である。憂愁を底流として生きていた彼女に、道長との接近は快活と幸福感とさらには優越感まで与え、大臣家に対する賛美をもたらした。彼女は女としてみずみずしく生き返った。しかしそれは彼女の根源的な志向の一つである学問する人間の立場に対して大きな矛盾をはらんでいた。事あるごとにそれは彼女の中でせめぎ合っていたはずである。しかし「論理」に従って生きるよりも「女として生きる魅力」が、ある時期の彼女をとりこにしたように見える。ところが、道長の長男、頼通(よりみち)の結婚話のために二人の関係は一変した。
道長は、権力志向の一つの行き方として源氏(皇族の子孫)との結婚政策を考えていた。長男の頼通(よりみち)と中務(なかつかさ)家の具平(ともひら)親王の長女、隆姫(たかひめ)をめあわせたい。それがためには、わが陣営の人間としては紫式部はこの際働くはずの人間である。道長はその判断のもとに紫式部に語らった。しかしその時、紫式部の心をよぎったのは、文学、学問の上で尊敬し親愛する具平(ともひら)親王の姿である。その姿への配慮が優先した。道長への対応において彼女は一瞬、逡巡(しゅんじゅん)の色を見せた。俊敏炯眼(けいがん)な道長は、今、心を打ち明けて真剣に語らっている相手が、実は本当の味方ではなかったと感じ取った。策略と駆け引きによって権力の座を保ち、それを発展させていくことに根源的な力を向けていた道長は、心の中で、即座に紫式部を陣営からはずした。それ以後は、以前のように彼女に接近することを断ち切ったのである。それは直ちに二人の「特別な関係」の断止へとつらなるものである。それを紫式部の側から修復することは当然不可能なことであった。
紫式部にとって道長との接近は、単に快活と歓びがもたらされただけではすまなかったはずである。それは彼女の内部で、死んだ夫、宣孝(のぶたか)との間の記憶として保たれてきた、ほのかな、温かな、一本道の、夫への誠意をゆるがせ、彼女が得たと思っていた夫の愛の裏側を彼女に見せただろう。道長の訪れを心待ちする身になって、それまで見えなかった男の動き、男の陰影を見すえる女に彼女は変わっていっただろう。のみならず、男を知り分ける女自身についてみずから多くを知っただろう。ほのぼのと優しい生来の彼女の気質に、ねたみや憎しみや皮肉のまなざしが加えられたことだろう。そして道長の圧倒的な人間的魅力、その剛(つよ)さ、ずぶとさ、深さ、幅広さ、優しさ、行き届く配慮のこまやかさを感じるとき、死んだ夫、宣孝との生活の仕合せな記憶は彼女から消え去って行っただろう。宣孝という人間は結局、五位の階層の派手な気性の男にすぎなかったと思われるようになっただろう。
彼女は一挙に違和感、劣等感、惑乱、恐怖の世界に追込まれ、不安と不足と不満、慨嘆の世界へと導かれた。時の経過につれて彼女は、依存を拒否して自己存在のあかしをみずから打ち立てる以外に道は残されていないという認識に追い詰められて行ったように見える。激烈なもだえの後に彼女は「私が私であるのは学問ができることだ」と、わずかにそこに生きる拠り所を求めている。出家についてはその近くまで寄りながら、仏法に身をまかせられる自分だとはしていない。日記の段階では、自己の力によって自らをささえて出家の一歩手前でとどまっている。果たして紫式部自身は、観念の世界、物語の世界だけで出家を果たしたのだろうか。それとも愛執の念を離れるには実際の出家による他は本当に道はないと考えるに至ったのだろうか。
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父藤原為時、越前国守となる。初夏、紫式部を同行して任地へ。越前の国府は武生(たけお)。 紫式部、藤原宣孝と結婚。 紫式部、長女賢子を産む。 夫藤原宣孝死す。 紫式部、一条天皇中宮彰子に仕える。 懐妊の中宮彰子、土御門邸へ。紫式部も随行。 紫式部、道長との関係生ず。紫式部37歳、道長44歳。 皇子誕生。 彰子、皇太后となり、紫式部は引続き仕えた。 後一条天皇(敦成、母は彰子)即位。 藤原道長没。 |