源氏に愛された女たち    渡辺淳一著

 紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは、十一世紀初め、今から約千年前である。科学文明の進歩は目覚しい。それに対して人間の真情だけは、人類がこの世に歴史を刻みはじめたころから少しも変わっていない。とくにその中核を成す男女の間の愛憎にいたっては、昔もいまも同じである。その理由は、恋や愛にかかわる問題は科学文明と違って、祖父や祖母など、先人の知識の上に積み重ねることができないからである。男女のことは、あくまで知識でなく、体験や実感をとおしてしか知り得ない。男女のことは、いくら本を読んでも、親が子にいくら教え、説教したところでわからない。人一人の、一生のレンジがあまり変わらない以上、そこで体験して得る知恵もさほど変わらないから、男と女について感じ、共鳴するところもさほど違わないだろう。千年前の「源氏物語」を読んでも理解することができるし、納得することができる。当時は、和歌や漢詩の素養、歌舞音曲の才とともに上品な色好みが上流貴族の教養のひとつと考えられていた。本書で取り上げられた、主な女性を紹介する。

桐壺の更衣

 源氏の生母であった桐壺の更衣は美しく儚はかなげな人で、ときの帝の寵愛を一身にうけた。帝の愛を一人占めする桐壺の更衣に対する羨望と嫉妬の中で、帝の子を産む。手厳しい女性たちからの反撥といじめに悩まされ、若くして死ぬ。

藤壺

 桐壺の更衣が亡くなってから藤壺が入内した。藤壺の宮が若くて美しいのにくわえて、亡き桐壺に容貌が似ているとして帝の寵愛を受ける。源氏も母を求める眼差しで慕ってきた。以前から心に秘めていた藤壺とは、ようやく思いがかない、一夜、密会するが、それが原因で藤壺は、源氏の子を身籠ってしまう。不義の子を宿した藤壺は自らの罪深さにおののきながら、男子を出産する。なにも知らぬ桐壺帝はそれを自分の子と信じ、寵愛する。二人は逢うに逢えず、この切なさが一層、互いの心を深い絆で結ばせることになる。

あおいの上

 光源氏の正妻である。葵の上は、父は左大臣、母は天皇の妹君という高貴な家柄の生まれで、天皇の子息ではあるが、臣籍に降下した光源氏と結ばれることになったのである。美貌と教養と、たぐい稀な育ちよさをもちながら、源氏との夫婦仲は冷えきって、味気ない生涯を送らざるをえなかった。葵の上は男子(夕霧)を出産するが、産後の肥立ちが悪く、帰らぬ人となる。

空蝉うつせみ

 空蝉は任地に行っている地方長官の妻である。源氏に強引に迫られて一度だけ体を許した。その後、源氏がいかにいい寄ってきても二度と許さない。男からの誘いを拒否することで、好色な男の心をつなぎとめた。

夕顔

 これといって才能があるわけでなく、容色もきわっだって美しいわけでもない。平凡で、もの静かなだけが取りえの女性であるが、男から見ると愛らしく保護本能をそそる女である。夕顔は源氏の先に頭中将に愛されて玉鬘たまかずらを産んでいる。夕顔は十九歳の若さで一生を終えた。

紫の上

 源氏が思いを寄せている藤壺の宮の姪で、その人によく似ている少女である。源氏の愛育によって少女は、上品で優雅で思いやりのある紫の上へと変貌していった。葵の上という正妻がいたので、妻の座に据えることはできなかったが、自他ともに認める、実質的な妻であった。終生、源氏の浮気に悩まされたが、口惜しいとは思い、嫉妬しながら、なお源氏の愛を信じて耐えた。

末摘花すえつむはな

 末摘花の醜さと貧しさはきわ立っていた。後見人もないまま荒れはてた邸で一人、古びた女房にかしずかれて細々と生きている。打算のない女の一途さは、容色や教養をこえて、源氏の心を揺さぶった。

源典侍げんのないしのすけ

 源典侍は六十歳近い老女であるが、男好きで、性においてもきわめて積極的である。絶えず前向きにものごとをを考え、男へのときめきを諦めない、いい意味での楽天主義が、年齢をこえた魅力を生みだしている。

朧月夜おぼろづきよ

 桜咲く朧月の夜、なに気なく散策しているとき、偶然に、源氏の君と出逢って抱きすくめられる。源氏は、左大臣の娘、葵の上と結婚し、左大臣側に属する有力な人物である。一方、朧月夜は右大臣の六番目の娘で、右大臣側の大切な娘である。世間的に許されぬ仲の二人が一夜の契りを結んで、ともに恋し合うようになる。朧月夜の生来の育ちのよさにくわえて、明るく闊達な性格と、その大胆な行動力に惹かれて、源氏もずるずると深みにはまっていく。このことがときの帝の生母である弘徽殿大后こきでんのおおさきの逆鱗に触れ、都から追放されそうになる。源氏は、流罪になる前に自ら都を去り、須磨に隠棲する。

六条御息所ろくじょうのみやすどころ

 生まれも地位も高く、教養があり、美人で趣味もいい。外見からはどこといって欠点のない、まさに理想の女性なのに、最愛の人、源氏にはさほど愛されることはなかった。源氏は御息所に恋いこがれ、激しくいい寄りながら、体の関係まで深まった途端、急速に醒めて、やや距離をおくようになってしまった。

明石の君

 源氏は明石の入道(父)の導きで明石の君(娘)と結ばれる。明石の君は源氏とのあいだに女児を生む。この女児は皇太子妃となられ皇子を出産、さらに匂宮におうのみや、女一の宮を産み、ついには帝の生母として、栄華の頂点までのぼりつめる。当然のことながら、その母である明石の君は、帝や皇子達の祖母として、明石にいたころからは想像もできぬ栄誉を得て、その苦悩と喜びの交錯した波乱の生涯を終える。

玉鬘たまかずら

 玉鬘はかつて源氏が愛した夕顔の遺児である。源氏は玉鬘に対して養父という立場と恋人という立場が交錯し、源氏の苦しみと悩みがあった。

女三の宮

 女三の宮は朱雀すざく帝の第三皇女で、源氏の正妻として降嫁してきた。源氏はすでに四十歳、三の宮はまだ十四歳の若さである。三の宮は源氏に養育されて成熟していくが、紫の上の発病によって手薄になった六条院に忍びこんだ柏木(頭中将の嫡男)と密通し、不義の子、薫を出産する。源氏は若い男と密通した姫を愛することはできず、二人の仲は急速に冷め、三の宮は自ら出家する。

朝顔の君

 朝顔の君は、源氏の強い求愛を無視し、拒否し続けた。この世の春を謳歌していた源氏は、朝顔の君にぶつかったことによって、この世には意のままにならぬ、いかな地位や名声をもってしても口説ききれぬ女性がいる、ということを実感させられた。