冬の喝采        黒木亮著

 早稲田大学三年の箱根駅伝55回大会(昭和54年)で三区、大学四年の56回大会(昭和55年)で八区を走っている。戸塚・平塚間は21.3キロ。

箱根駅伝55回大会(昭和54年)の三区
 三区のランナーは、北海道深川西高校出身、三年生の金山雅之。174センチ、60.5キロ。足をあまり高く上げず、引きずるようなピッチ走法。中学のときは、大きなストライドで走っていた。しかしその冬、凍りついた道で長い距離の練習を繰り返したために、走法が一変してしまった。雪の多い地方で育ち指導者もいないままに練習したたため、高校二年から大学一年までの三年間は怪我でブランクである。大学には一般入試で入り、競走部には、大学二年から準部員として入部した。
 第三区のスタート地点は、国鉄戸塚駅西側に広がる商店街の坂道を2キロメートルほど登った国道一号線沿いにある。金太郎食堂というレストラン前の広場が二区と三区の中継点である。二区の瀬古は3キロメートル地点で日体大の中村孝生に追いつき、3.7キロメートルで突き放しトップに立った。二区で区間新記録を作った瀬古からタスキを受け取った。金山雅之は首位を守って、四区の井上雅喜にタスキを渡した。目標タイムは、1時間7分30秒だった。悪くても1時間8分、あわよくば1時間6分台と考えていた。20キロメートルのベストタイムが1時間3分31秒7で、コースの前半は下りなので、その程度では走れるはずだと思っていた。三区を終わった時点でチーム順位は一位だったが、区間順位は十三位だった。記録も1時間9分56秒で目標タイムを大幅に下回っている。どうして駄目だったのだろうかと考え続けた。理由は二つ考えられた。右の腰から太ももにかけての怪我のために、全力で走れなかったこと。もう一つは、あと6キロメートルくらいのところで、「後ろとまだ二分離れている」といわれ、油断したことだ。仕上げ練習では、石川や井上に引っ張られるようにして何とか走れたが、一人ぼっちだったレースでは、自分を自分で追い込むことができなかった。後半の頑張りも全然足りなかった。中村監督の都の西北に感激なんかしている場合ではなかった。後半必至で頑張っていれば、少なくともあと一分はタイムを縮められたはずだ。他大学の選手たちは、タスキを渡すと精魂尽き果てた感じで、両脇を支えられてやっと歩いていた。駅伝では、死ぬほど頑張って、持てる力の最後の一滴まで振り絞らないといけないのだ。
区間賞 瀬古(二区)  区間二位 井上(四区)、滝川(十区)  区間三位 石川(一区)、小田(九区)

箱根駅伝56回大会(昭和55年)の八区
 八区のスタート地点は、平塚市と大礒町の境に位置する唐ケ原交差点のそばである。すぐそばに花水レストハウスというドライブインがある。八区の最後の6キロ強はずっと登りである。粘りのある持久型の選手の区間なので、自分には向いていると思った。目標タイムは1時間8分30秒、区間順位の目標は三位、四位。7〜8キロで腹痛が起きペースががくんと落ちた。1キロ3分10秒だったのが、3分20秒くらいになった。15キロ過ぎの藤沢橋のところで、腹痛が治った。ここからペースアップして九区の小田にタスキを渡した。結果は区間順位六位、タイムは1時間10分2秒だった。途中の約7キロにわたる腹痛でタイムを1〜2分ロスしたことを考えれば、悪くない。合格最低点といったところだ。

 中学二年になる直前に、深川市の書店で初めて陸上競技マガジンを見たとき、身体の内部から突き上げてきた走ることへの衝動は、遺伝子の作用以外の何物でもなかった。誰に命じられることもなく一人で走り始め、やがて中村清と瀬古俊彦に出会い、父が走った箱根の三区を、ちょうど三十年後に、父と同じように終始首位で走った。北海道の小さな町から、戸塚・平塚間の21.3キロへわたしを導いたのは、遺伝子のなせる業だった。

 大学四年の箱根駅伝を最後に競技をやめ、仕事に専念した。英語を生かし、国際金融の世界で、思う存分働いてきた。振り返ることなく生きていこうとずっと考えてきた。競走部に在籍した多くのトップ・アスリートの栄光に比べればごくささやかなものだが、六年間破られなかった20キロの北海道記録は、今も心の中で燦然と輝いている。けれども、もし人生で一つだけやり直せるとしたら、陸上競技をやり直したい。

箱根駅伝での早稲田大学の記録
55回大会(昭和55年) 四位 (優勝 順天堂大学 二位 日体大 三位 大東文化大学)
56回大会(昭和56年) 三位 (優勝 日体大   二位 順天堂大学)

57回大会(昭和56年) 五位
58回大会(昭和57年) 五位
59回大会(昭和58年) 二位
60回大会(昭和59年) 優勝
 金哲彦(木下)(五区)
61回大会(昭和60年) 優勝

 早稲田の中村清監督は東京急行陸上部の監督として東京オリンピックに九人の選手を送り込んだ後、強烈な個性が災いして、陸上界から追われて、十一年間雌伏の生活を余儀なくされた。箱根駅伝51回大会は予選落ちし、早慶戦にも敗れるという未曽有の凋落に遭って、OBたちが「猛毒のある男だが、地に落ちた部を生き返せるには、もはや中村しかいない」と監督に招請した。

 昭和59年早稲田が箱根で30年ぶりに優勝したのを機に、ヱスビー食品と早稲田の監督を兼任していた中村清は、ヱスビーの監督に専任。瀬古は昭和55年のモスクワ五輪に日本のボイコットにより出場できず、昭和59年のロサンゼルス五輪では、コンディショニングに失敗して14位、昭和63年のソウル五輪では選手としてのピークを過ぎて9位に終わった。

 中村清監督は自己顕示欲が強く、子供のように自制心がない一方で、陸上競技に関しては、燃える炎のような情熱を持っている。その情熱は、年老いて衰えるどころか、ますます激しく、怨念のようですらある。2年9ヶ月の間、この常識外れの老人に翻弄された。容赦ない言葉にずいぶん傷つけられもしたが、箱根駅伝で終始首位を走り、20キロで北海道新記録を作るという、想像すらしていなかった場所に自分を引き上げ、「努力は無限の力を引き出す」という言葉を体験させてくれた。中村清と出会わなければ、ずいぶんと違った学生生活になっていたことだろう。

 昭和60年5月25日、中村清は、新潟県の魚野川で、釣りを楽しんでいる最中に、心臓発作を起こして亡くなった。競走部の仲間たちの多くは陸上競技の指導者になった。彼らは「指導者になって中村監督の偉大さがわかった。あれほど自分の身体を鞭打ち、情熱をもって選手を指導するのは、並大抵のことではない。」と口を揃えていう。

サロマ湖畔夏合宿での地元の人達による歓迎会

選手一人一人が紹介され、瀬古の挨拶があり、町の人の歌なども出て、席は次第に盛り上がって行った。町の人々の中には、煙草を吸い始めた人もいて、時が経つに連れ、くだけた雰囲気になって行った。
「・・・・・ほら行けよ、ほら!」
四つ向こうの席で、青地に朱色のラインが入ったジャージーの瀬古が4、下級生の一人に、ステージに出ろとけしかけていた。
「いや、それは、ちょっと・・・・・勘弁して下さいよぉ」
下級生は、苦笑いしながら、手を振る。
「いいから、やれよ、ほら。中村先生の物真似」
ビールで赤い顔になった瀬古は、早口でいい、片手で煽るような仕草をする。
件の下級生は物真似が上手く、中村監督の物真似も時々やっていた。
「そりゃ、まずいですよ。怒られますよ」
下級生は、懸命に抵抗する。
「だいじょーぶだって! 今日は無礼講なんだから。俺が保証するから」
瀬古はビール好きで、結構酔っていた。
「はあ・・・・・」
「何かあったら、俺が中村先生にちゃんといってやるから」
下級生は、渋々ステージに向かった。
スタンドマイクで自己紹介し、芸を始める。
「えー、では、本日は、無礼講ということで、最初に監督さんの物真似をやらせていただきます」
会場からはやんやの喝采。
「おー前らは、どうしてわしのいうことが聞けんのだ!? わしがやれといったら、やるんだ!」
血相を変えて、マイクに向かって怒鳴り始めた。いきなり監督が乗り移った感じである。
大笑いが起きた。
「わしが草を食えといったら、食えっ!」
足元から草を抜いて食べる真似。これは、わたしも一、二度見たシーンだ。
「お前らが駄目なのは、監督のこの中村がいかんからだのう? 中村は、選手を殴りません。 代わりに、自分を殴ります」
下級生は、自分の頬を自分の拳で何度も殴る真似をする。 中村監督が自分の顔殴る時の力の強さは半端ではなく、顔が歪むほどだ。双眼鏡で自分の頭を殴り、頭が割れて血が飛び散って、怒られていた一年生が卒倒したこともある。
「ええか? 瀬古は、寝てる時も陸上のことを考えてるよ。お前らは、まだまだ真剣さが足りん。 瀬古があの太陽だとしたら、お前らは、地底のしたーの、したーの、したーの、腐った木の根っこだのう」
会場は爆笑に包まれ、主催者の新谷さんも大笑いしていた。
並んですわった石川海次と石川二朗は、下を向いて笑いをこらえている。
「瀬古、お前も油断したらいかんぞ」
「去年の東京選手権は、なんだ!?」 ゴールの何十メートルも前から万歳しおって! そんな油断しているから、最後でかわされるんだ」
瀬古は、こいつ、と拳を殴る真似をしながら、笑っていた。
「おー前らのような、どうしようもない奴は、わしがこうして、こうして、こうしてくれるっ!」
人を背負って、プロレスのボディスラムのように地面に叩きつけ、それを足で何度も踏みつける仕草。これも非常によく似ている。
白地に赤いラインの東京五輪のジャージーを着た中村監督のほうを見ると、苦笑いしていた。



翌朝、昨夜、物真似をした下級生が、怒られた。
「お前はいつも、ああいう物真似をしているのか?」
食堂のテーブルに選手全員がすわり、東京五輪の白いジャージーを着た監督が、檻の中の熊のように、周りを歩き回っていた。
件の下級生はしょんぼりした顔で、テーブルについていた。
「芸は身を助くというが、お前の場合は、芸は身を滅ぼすだのう」
怒りがこもった目で、下級生を睨みつける。
昨夜は、みんなの手前、苦笑いしていたが、内心はひどく腹を立てていたのだ。
「お前は、柳家金語楼か? そんな物真似ばっかりしおって」
師として慕われ、先生と呼ばれることを欲している中村にとって、宴会芸の材料にされて笑われるのは、我慢がならないことだった。
「ああいうくだらん芸をやるのは,練習に身が入っていない証拠だ。きさまは、私生活がなっとらんのだ、私生活が!」
私生活が駄目な人間は、すぐれた競技者になれないというのが中村清の持論だ。すぐれた私生活とは、葉隠の武士のような、質素で規律正しく、ストイック(禁欲的)なものだ。
「そんなに芸がやりたいんだったら、俺が、箱根駅伝の十一区を作ってやるから大手町の読売新聞社前から新宿末広亭まで走れ!」
監督は、いまいましげにいった。
瀬古を見ると、まずかったなあ、という顔つきをしていた。「俺が保証するから」といった言葉は、まったくあてにならなかった。
「俺がお前に芸名をつけてやる。お前は今日から柳家銀三郎だ」
引き合いに出す芸能人の名前が古いのが、監督の特徴だ。
「おい、銀三郎。きさまは、どっからそんな芸を習った! お前が馬鹿みたいな芸をしている間に、ほかの大学の選手たちは・・・・・」
怒りのこもった説教は、いつ果てるともなく続いた。