藤原京よみがえる日本最初の都城        木下正史著

 持統八年(694)十二月、都は飛鳥の地から、藤原の地へと遷る。中国の都に学んだ日本最初の都城・藤原京の誕生である。それは、和銅三年(710)三月の平城京遷都まで、持統・文武・元明の三代の天皇に引き継がれた16年足らずの短命な都だった。

 橿原市高殿町に「大宮土壇」と通称される大きな土壇がある。藤原京大極殿の基壇跡である。平城京へ遷都して間もない頃、奈良盆地全体が条里制による耕地整理が行われ、藤原宮・京の跡地もほぼ全域が水田化された。藤原宮の建物跡や京の道路跡などは地表からほぼ完全にかき消され、条里水田の下に埋もれてしまう。大宮土壇は地上に残された藤原宮の唯一ともいえる痕跡であった。

 『日本書紀』の天武十三年(684)三月九日条に「天皇、京師(みやこ)を巡行(あり)きたまひて、宮室之地(みやどころ)を定めたまふ」とあり、この「宮室之地」こそ「藤原京」のことで、天武天皇による藤原宮遷都が決定した。藤原宮・京の造営を直接示す記事は、持統五年(691)十月二十七日の「新益京(あらましのみやこ)を鎮め祭らしむ」が最初である。天武天皇崩御等のため造営工事は頓挫し、喪あけの持統天皇即位直後のこの時期に、造営に本格的に着手する。藤原京の造営期間は、持統五年(691)十月の地鎮祭から持統八年(694)十二月の遷都までの3年2ヶ月を要した。飛鳥の諸宮の造営期間が、2、3ヶ月であったのと大差がある。

 七世紀の百年間は古代国家がその姿を確立し文明国家の体裁を整える日本古代史上の大きな転換期だった。七世紀末の藤原京の建設、八世紀初め大宝律令の制定をもって集大成ともいうべき結実を見る。国づくりの理想に燃えて、その政治を行う舞台として建設されたのが、藤原宮・京であった。


藤原京は藤原宮を中心に置き、東西10坊、南北10条に区分する5.3キロ四方の京域を占めていた。
藤原宮は1辺1キロ四方の正方形の範囲。
宮城の周囲には大垣(掘立柱塀)がめぐらされていた。
宮城門は四周の各辺に各3ヶ所ずつ計12門が、大路に面して開いていた。


内裏
天皇が住むところ。発掘があまり進んでおらず、実態不明。

大極殿
朝堂の正殿で、国家の政治・儀式を執行する宮殿の正殿とのしての性格を確立していく。大極殿が即位壇場施設としての機能が定着した。

朝堂院

朝堂院は、本来その中央の広場である「朝庭」に意味があった。有位の官人たちは毎朝、日の出とともに朝参するのが原則で、宮城へ出仕すると、まず朝庭で天皇の前に列立して朝礼を行った後に、朝堂に入って政務を執った。天武十四年(685)、身分制の基となる冠位四十八階制が制定され、さらに持統四年(690)に飛鳥浄御原令が施行されると、古くからの氏族重視の秩序は後退して、代わって位階による新しい官僚制秩序を重視する方式へ転換する。それとともに従来のように口頭による命令指示、連絡でなく、文章を起草し、それによって命令を伝達し事務連絡を行うようになる。それに従って、朝堂院における政治儀式は形式化が進む。時代が下るに従って縮小化の一途をたどるのは、背景にこのような宮殿での政治・行政方式の変質があった。

官衙(かんが)
役所。藤原宮の官衙が建物数が少なく、長く均質的な建物群を直線的に連ねて大雑把な配置構成をとっている。官衙の建物構造や配置に、秩序を明確に示す意識がまだ不徹底であったためではないか。長い均質的な建物の中を適宜仕切って各階層の役人が執務にあたり、また複数の官司で使い分けする場合もあったのかもしれない。