藤原不比等        上田正昭著

 藤原不比等は、斉明天皇五年(659)に鎌足の次男としてこの世に生をうけ、62歳をもって病没したのは養老四年(720)である。彼の生涯は、律令による土地・人民のしくみが明確化し、律令ににもとづく政治が具体化した時代のなかにあった。不比等は大納言となり、さらに右大臣となって、律令政治家としての道をひたすらに歩んだ。また、藤原氏が天皇家の外戚としての位置を築きあげたのも不比等の政略におうところが少なくない。藤原氏の摂関政治の原型は、不比等の時代に築かれた。不比等は左大臣になることをさけた。左大臣の地位が空席であっても、ついに右大臣にとどまった。太政大臣との要請も、これを固辞して受諾しなかった。彼が欲したのは地位や名誉よりも、実力であり実権であったようだ。表の象徴の人であるよりも、裏の実権の人として行動した形跡が著しい。

 天智天皇八年(669)、鎌足臨終の前日に藤原の姓が贈られて、中臣氏は藤原氏を称することになる。文武天皇二年(689)の詔で、藤原氏内部で政治と祭事の分掌が確立した。不比等が政治を行い藤原を姓とし、意美麻呂は神事を行い中臣の姓に戻すことになった。中臣氏が鎌足の代にいたって、はじめて中央政界に重きをなすにいたったのではなく、欽明朝の六世紀のなかばには中央の祭官組織が急速に整備され、それとともに中臣氏が大夫としてまた祭官として注目すべき存在になっていた。神意のとりもちをし、伝達する「中とりもち」として中臣を名乗るようになった。

 鎌足がこの世を去ったその時、不比等はまだ11歳の少年であった。鎌足は、不比等を山科の田辺史(ふひと)大隈らの家で養育させた。不比等の教育に田辺史らの渡来系氏族の知識が与えた影響大きい。中臣氏の壬申の乱における去就は、大友皇子支持派のほうにいちじるしい。不比等をとりまく状況には、不利な条件が介在している。不比等が天武朝においてよりもつぎの持統朝のころより急速に頭角を現す事情がある。

 天平勝宝八年(756)の「東大寺献物帳」黒作懸珮くろずくりかけはき刀の重要な記載がある。黒作懸珮刀は草壁皇子が日ごろ珮持はいじしていたもので、藤原不比等に賜り、軽皇子(文武天皇)即位のおりに、藤原不比等が文武天皇に献じ、文武天皇が崩じた時に再び不比等に賜り、不比等がみまかった日におびと皇太子(聖武天皇)献じたものであると記述されている。皇太子にはじまって皇太子に継承された伝世珮刀のありようは、不比等の後半生を象徴する。持統天皇三年(689)、草壁皇子は28歳で病死する。草壁皇子愛用の珮刀が藤原の不比等に与えられた背景には、軽皇子の将来を不比等に頼むところがあった持統天皇や草壁皇子妃たる阿部皇女の意志がはたらいていたにちがいない。軽皇子は草壁皇子がみまかった時、わずか7歳であった。軽皇子の最大の庇護者には祖母の持統天皇があり、さらに母の阿部皇女とそして藤原不比等があった。