円安シナリオの落とし穴        池田雄之輔著

 筆者は野村証券の為替ストラテジスト(Strategist 投資戦略を考える専門家)として為替取引のある顧客、あるいは為替相場に関心の高い投資家に、有益な情報を提供することをミッションにしている。筆者は2014年末の相場をメインシナリオで1ドル=110円と予想している。

 ドル円相場の動きは、ひと筋縄では理解できない。短期の相場はヘッジファンド勢の動きに翻弄される。一方、中長期では需給および日米金利差が複雑に絡んでくる。このため、いよいよ円安トレンドが盤石になったぞ、と過信するときほど投機の巻き戻しによる突発的な円高という落とし穴にはまってしまう。逆に、また円高トレンドに戻ってしまった、とあきらめかけた頃、ふわりと円安方向に反転する。投機の動き円需給
金利差、という三層の波を立体的に眺めてみれば、ドル円相場がけっして無秩序に動いているわけではない。

 アベノミクス相場のもっとも華々しかった2012年11月から2013年5月までの6カ月間では、ヘッジファンドは恐らく30兆円近い円売りを積み上げていった。ヘッジファンドとしては異例なほど長期間にわたって、一方向のフロー(需給)が出続けたわけだ。1ドル=79円から103円まで、わずか6カ月間で24円ないし30パーセントの円安を主導した海外ヘッジファンド勢が、再び急激な円安に火をつけることはあるのだろうか。おそらくないだろう。ヘッジファンドは常に、メリハリをつけて世界情勢を見回している。欧州情勢が大きく動いている際には、なかなか日本には手が出せなかった。時間と労力をかけて日本の相場に賭ける余裕がなかった。逆に、ユーロ圏が安定したタイミングで、日本の政治が大きく動き出したからこそ、彼らは大挙して日本に来るようになったのだ。世界のヘッジファンド勢が、日本のことだけを考えている、そのような状況は2012年11月から2013年5月頃まで続いていた。アベノミクスによる日本株上昇、円安に賭けてきたヘッジファンド勢は、日本に一極集中し、そして大きな利益を稼ぐことができた。そして2013年夏以降、米国、中国の状況が大きく変化し始めている。もはや日本だけを集中して見ていられる環境では到底なくなっている。日本国内においても、1ドル=100円付近で達成感が出ており、政府・日銀がさらなる円安を志向して政策を連発してくる雰囲気も感じられない。ヘッジファンドが飛びつき、彼らが作り上げた華々しい「アベノミクス」の饗宴相場は終わった、と見るべきだろう。そもそもアベノミクスは、極めて幸運なタイミングで巡ってきた、短期勝負の筋書きだったと振り返ることもできる。2012年12月の衆議院選挙に勝利し、2013年4月に予定されていた日銀総裁の交代をテコにして大胆な金融政策の転換を迫る。そしてその政策的な成果、とりわけ円安、株高をアピールすることで2013年7月の参議院選挙に勝利する。アベノミクスは、7月の参院選まで全力疾走で突っ走ることを運命づけられていた。それがゆえに、ヘッジファンド勢も自信を持って短期勝負の相場に乗ってきた、と振り返ることができるだろう。6カ月間にわたったアベノミクス相場はあくまで例外的な投機の盛り上がりだった。

 円の需給バランスを展望してみよう。貿易赤字は緩やかにしか縮小しないだろう。1バレル=90ドル前後への緩やかな原油価格の低下を前提にした場合、野村証券の試算では貿易・サービス収支は2014年度が8兆円の赤字、15年度は6兆円の赤字としている。米国経済の復調などで自動車輸出などは徐々に回復するだろうが、輸入金額の高止まりが影響してしまう。貿易黒字に転換するのは早くとも2016年度、おそらくは17年度だろう。日本企業は国内での設備投資拡大と並行し、対外直接投資も14〜15年度は10兆円近いブームが継続すると予想する。約半分が「円投」でない外貨資金からの投資だとしても、残る5兆円程度は円売り圧力になる。貿易赤字と合わせた、企業部門の、つまり実需の円売りは年間11〜13兆円という巨額の状況が継続するのだ。貿易・サービス収支、対外直接投資、投信フロー、生保フローは円売り超過の継続が予想される。円買い超過が続くのは所得収支(配当金・金利収入)だけである。円需給バランスは10兆円前後の円売り超過の状態が2015年度までは続く計算になる。10兆円程度の円売りが継続すると、それだけで年間5〜8円の円安要因になる。

 日米金利差はどうだろうか。2013年9月の時点で、FOMC(Federal Open Market Committee 連邦公開市場委員会)が見込でいた利上げのタイミングは2015年半ばだった。しかし、インフレ率がFOMCメンバーの想定を下回って推移していること、イエレン新議長はバーナキン議長以上に緩和追求姿勢が強いこと、の2点をふまえれば、利上げ開始は2015年10−12月期ないし16年1−3月期あたりを想定しておくのがよいだろう。2013年10-12月期の時点で約0.3パーセントという低水準にある米国2年金利が、利上げ開始時点の2015年末には1.0〜2.0パーセントまで上がるとすれば、それだけで2年間累計で3〜7円の円安効果がある。

 2014〜15年の円相場を占うと、1年ごとの円安圧力は、10兆円規模の円売り超過の円需給の偏りによって5〜8円程度、日米金利差によって2〜3円程度、合計で年間7〜11円ずつの円安を見込むのが妥当という計算になる。2015年末の相場は1ドル=116円としておきたい。もちろん、1ドル=120円も十分に射程圏内にあるということだ。このように、ゆっくりした円安が着実に進むのであれば、日本の輸出企業にとってはベストに近いシナリオではないだろうか。実現の可能性は十分にあると判断している。

落とし穴@ 米国金利の低下、貿易黒字の復活
 米国の政策金利のピークは4パーセント台止まりと予想される。2018年には政策金利が頂上に上りつめており、2年債金利など市場金利はその後の利下げを織り込んで、すでに低下を始めている公算が強い。2016年から17年には日本が貿易黒字に復帰している可能性が高い。もちろん、この間、海外経済が好調であれば投資のフローは円売り超過の状態が続くこともあり得る。それでも円需給が大幅に円売り超過という状況は永続しない。いずれ、かっての円買い超過に復帰することが見込まれる。2017年ないし18年から円高方向に旋回し始める。

落し穴A 中国経済失速
 中国でいわゆるシャドーバンキング問題などが制御不能となり、不動産バブルが崩壊したらどうなるか。もしそのようなことが起こってしまえば、1ドル=85円という円高の定着もあり得る。しかし、中国では公的資金の投入に反対する声が、政治に影響するような仕組みが欠如している。中国ほど金融危機対応に優れた政治システムを備えた大国はない。中国経済失速の発生は想定する必要がないだろう。

落とし穴B シュール革命の功罪
 シュール革命の恩恵を最大限に享受するのは米国である。米国では、日本以上の貿易収支改善が期待され、構造的なドル高体質に変貌する可能性がある。シュール革命によるエネルギー価格低下は、一見すると日本の貿易赤字縮小を通じて円高要因になるように見える。しかし、良い燃料安が日本の対外投資を促す効果、そして米国の貿易赤字改善によるドル高効果を踏まえれば、むしろ円安を支援する可能性も十分にある。

日本の財政破綻と円暴落リスク
 なぜ日本国債、日本円の信用は崩れないのか
第一に、日本の国債の9割以上が国内で保有されている。
第二に、日本は対外債権国である。
第三に、日本は過去の円売り介入の結果として、1兆2700億ドル(約127兆円)にのぼる潤沢な外貨準備を保有している。

しかし今、実は「国債は日本人によって支えられている」という一番目のポイントは、盤石とはいえない状況になっている。日本は現在、大幅な貿易赤字を計上し、対外直接投資も高止まっている。これは、企業のお金が国外に流出していることを示していることに他ならない。投信マネーや生保マネーがゆっくりと外貨にシフトを進めていくという予想は、国債に流入する国内の投資マネーが細っていく可能性を示している。国債の需給は、潜在的に悪化する恐れがあるのだ。それを、日銀の大量の国債買い入れでやや強引にバランスをとっている格好になっている。あまりも長期間にわたって日本の貿易赤字を放置すると、円安傾向が継続しすぎ、それを嫌気した日本の個人マネーが円離れを起こすリスクが出てくる。いわば「円売りが円売りを呼ぶ」事態に発展してしまう危険はゼロではない。その意味では、2016年から17年頃に、日本が貿易黒字に復帰できるか否かは、円の信認を維持する上で重要なチェックポイントになるかもしれない。