炎環えんかん               永井路子著

 永井路子(1925年〜)が39歳の時(1964年)に第52回直木賞を受賞した作品です。

阿野全成(悪禅師)、梶原景時(黒雪賦)、北条保子(いもうと)、北条義時(覇樹)の4人をそれぞれを主人公にした連作の形を採っています。

時代は治承4年(1180)の石橋山の戦いから承久3年(1221)の承久の乱までの鎌倉幕府での出来事が題材になっています。

頼朝の異母兄弟、義経、範頼、全成をはじめ鎌倉幕府の御家人、河越重頼、千葉広常、梶原景時、比企能員、畠山重忠、稲毛重成、平賀朝雅、和田義盛が謀反の罪で悲運な最期を遂げている。

この時代は鴨長明(1155-1216)の生きた時代と一致している。建暦2年(1212)に完成した随筆『方丈記』は当時の京のありさまが記述されている。



1180年 治承4年 8月 源頼朝伊豆で挙兵、石橋山で敗れる。
10月 源頼朝、鎌倉に入る。
1183年 寿永2年 5月 源義仲、越中倶利伽羅谷で平家軍を破る。
頼朝、義仲追討のため弟範頼・義経を上洛させる。
1184年 寿永3年 1月 義仲、近江粟津で敗死。
1185年 寿永4年 2月 義経、屋島で平氏を破る。
3月 壇ノ浦の戦いで平氏敗れ滅亡する。
5月 頼朝、義経の鎌倉入りを許さず。
1199年 正治1年 1月 頼朝死去により、頼家が第2代将軍になる。
12月 梶原景時追放。
1203年 建仁3年 5月 頼家、叔父の阿野全成を常陸に流し殺す。
9月 比企能員(よしかず)、北条時政に殺される。
頼家を伊豆修善寺に幽閉。
実朝が第3代将軍になる。
1205年 元久2年 6月 北条時政、畠山重忠を討つ。
閏7月 北条時政と妻牧の方は、平賀朝雅の将軍擁立を謀り失敗。
時政は伊豆に隠退し、北条義時が執権となる。
幕府、京都で平賀を討伐。
1213年 建保1年 5月 和田義盛、挙兵し敗死。
1219年 承久1年 1月 実朝、公暁に暗殺される。
1221年 承久3年 5月 後鳥羽上皇、北条泰時追討の院宣を発す。(承久の乱)
北条泰時・時房は幕府軍を率いて西上。
6月 幕府軍は入京し泰時・時房は京都に常駐する。






阿野全成(ぜんじょう)
北条政子の妹、保子(やすこ)と結婚する。

範頼、義経が木曽義仲征討、平家追討のため京、西国に向かったのに対して、全成は鎌倉の頼朝のもとにいた。

全成は所領を望まなかった。遠州阿野庄が与えられるとそれだけで満足した。彼が僧形であることが隠れ蓑になった。頼朝の傍らに近侍していても、そこにいるのは才気を蔵した御所の舎弟ではなく、護持僧の一人、阿野禅師がいるにすぎない、と思うようになっていた。

妻保子は頼朝の次男、千万(後の実朝)の乳母になる。

頼朝が死んで、頼家(万寿)が跡をつぐ。

全成は甥の頼家により謀反の罪で流罪になり、下野で斬殺される。全成53歳。



梶原景時
梶原景時は石橋山の戦いでは、大庭景親もとで頼朝と戦った。

梶原景時は、山中で土肥実平に出会った見逃した。

土肥実平のとりなしで、梶原景時は降人としてではなく御家人として頼朝に召し出されることになった。

木曽義仲追討では、大手の大将には源範頼、搦手(からめて)の大将には源義経そして梶原景時は二人を後見する軍監に任じられた。

梶原景時は、御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた。

小山朝光が、ありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた。翌々日、御所に勤める阿波局(北条保子)が朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言し、あなたは殺される事になっている」と告げた。

驚いた小山朝光は三浦義村に相談し、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけて、御家人66名による景時糾弾の連判状が作成された。

梶原景時正治2年(1200)正月、雪の中で死んだ。



北条保子
源頼朝の異母弟で醍醐寺いた全成法師と結婚する。

頼朝の次男、千万の乳母(実朝)になる。

2代将軍源頼家の若さに任せての決断は、頼家の訴訟裁決権を取上げられ、以後の決定はすべて有力御家人の合議によって行われることになった。

御家人たちはこの合議制のために、かえってお互い牽制しあい猜疑心を深めていった。

梶原景時の失脚事件はこの例だ。

梶原景時失脚の端緒を開いたのが保子のおしゃべりだった。

景時が朝光を非難していると尼御台や北条義時に触れ回り、わざわざ朝光の耳に入れたおせっかいは、保子だった。



北条義時
北条義時(四郎)は38歳で13人の合議制のメンバーとして初めて政局の表面に現れた。
(大江広元、三善康信、中原親義、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛、比企能員、梶原景時、八田知家、安達盛長、足立遠元、二階堂行政)

伊豆に下った北条時政に代わって執権の座についた。

和田義盛が謀反の兵を挙げたとき同族の三浦義村は兵を挙げなかった。

公暁の乳母夫の三浦義村は、公暁を見殺した。

北条義時も実朝を見殺した。

三浦と戦うことなく東国の王座の座についた。

承久3年(1221)後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下した。

承久の乱によって武士の優位が確定された。