江戸庶民の知恵に学べ         淡野史良著

 江戸庶民の日常の衣生活を支えていたのは古着屋だった。古着はリサイクルの優等生で、一着買えば何度も洗い張りし、仕立て直しをし、作り替えて着た。江戸の古着を売り買いの権利を持つ人だけで3000人余りもおり、さらにその下で働く人をふくめれば、ずいぶん大きな業界である。

 その一方で元禄以後、江戸には、大丸・越後屋・松坂屋・白木屋・升屋などの大規模呉服店が開店した。こうした大規模店の上得意は、武家と裕福な商家の奥方だった。大丸や越後屋などの大呉服屋はみな京都や伊勢・近江などに本店があって、江戸は出店であり、競って江戸の客をつかまえようとした。

 魚河岸と青果物市場に運ばれてきた魚介・野菜類は、真っ先に幕府の賄まかない方が必要な分を買い付ける。それがすんだあと、魚・野菜は江戸市中へと売られていった。江戸庶民の初物好みはカツオだけでなく、マス・アユ・サケ・アンコウのほか、カモやキジなどの鳥や、なす・しょうが・しいたけ・ぶどう・梨・柿などの野菜・果物にも及んでいた。当時は「初物75日」といわれて、その年にとれた魚や野菜などを食べると、寿命が75日延びるといわれていた。江戸近郊の農家は数日でも早く野菜を出荷すれば、はるかに高い値で売れるため、高価な下肥を買い、促成栽培を競った。

 江戸の人口は、100万人を超える都市で、当時の世界一の都市である。江戸の人口の50%にあたる50万人〜54万人の町人が暮らし、武家人口はわかっていないが、町人とほぼ同じ50万人余りいたと考えられている。江戸はもともと武家政権を維持するために整備された都市なので、武家と町人との住宅環境には大きな落差があった。江戸の市街地の約60%は武家地だった。残る40%のうち半分は寺院と神社が占め、町人の住む土地は20%しかなかった。

 庶民の住む裏長屋は、六畳の広さしかない。入り口の土間に水がめがあり、狭い台所と煮炊きするカマドがあったので、寝起きするスペースは四畳半になる。裏長屋の壁は薄い板一枚で、隣とは筒抜けであり、プライバシーは保てなかった。

 江戸の町を数町から数十町にわたって焼きつくした大火は、江戸時代に100件近くあり、10年に一度は江戸の町を焼失するほどの大規模火災があった。このように火災が頻発するので、長屋の持ち主である地主は立派な材木を十分使って長屋を建てなかった。長屋の住民にしても、火事で焼き出されることは大いにあり得ることなので、立派な家財や調度類を持たなかった。そのぶん食い物や遊びに金を使った。江戸っ子の行き当たりばったりの生き方は多発した火事によるところが大きい。

 「江戸っ子」を自称した職人たちとそれより低所得の庶民は、低所得のせいもあって宵越しの銭を持たないのを生き方のスタイルとした。「金は使うもの」であり、「ためたり殖やしたりするもの」ではなかった。江戸は武士の町で、武士は表向き金を卑しんだ。その気風が町人にも及んだといえる。中間層では、町人から武士へと身分変更したケースがある。当時、貧乏な御家人が多くおり、彼らは金と交換に養子を迎え、役人の地位を譲り渡した。こうすれば、幕府がつづくかぎり、役人に付随している幕府からの米が毎年支給される。勝海舟の家も金で御家人株を買って、町人から幕臣となっており、こういうケースは幕末になるほど多くなる。

 江戸っ子が嫌ったのが「伊勢屋」である。江戸っ子の間では、伊勢屋が倹約というよりケチによって金をたくさんため込んだシンボルにされた。江戸初期に伊勢や近江から多くの商人が移り住んだが、近江商人が行商に力を入れたのに対し、伊勢商人は町内に店をかまえて、勤勉と倹約を心がけて小商いから大きくなっていった。また奉公人に暖簾のれん分けして系列店化もすすめた。伊勢屋は酒屋や米屋、質屋など町人の暮らしに密着した店を出した。

祭り

 山王権現(日枝神社)の山王祭、神田明神の神田祭、三社明神(浅草神社)の三社祭が、江戸の三大祭といわれた。江戸時代には寺と神社は住民と切っても切れない結びつきにあった。寺が檀那寺として戸籍係や死者の儀礼を受け持ったのに対して、神社は氏神となって誕生から成長していく過程のおめでた係をつとめた。祭りは氏子が一体となって神を迎えまつる行事で、これを一緒に行うことによって、地域住民としての絆を固くした。祭りは町内の円満な関係を築くきっかけにもなっていた。

危機管理

 江戸の危機管理に対処していたのは、町奉行が率いる町奉行所である。「危機」には火災や地震の災害と「打ちこわし」のように住民自身が引き起こす形があった。危機克服は、町奉行所の役目であった。南町奉行所、北町奉行所合わせて与力が50騎(人)、同心は200人〜280人しかいなかった。これだけの人数で江戸の町人地の行政・司法・治安・消防・教育・厚生などの民生を預かった。