江戸時代       大石慎三郎著

城下町江戸の成立

 江戸の地に12世紀のはじめに秩父平氏の一人である秩父重継が住みつき、地名を姓として江戸四郎重継を名乗った。これが城下町としての江戸のはじまりである。秩父平氏というのは、武蔵国秩父郡から今日の東京都東部にまで勢力をはった平氏の一党で、江戸に本拠をおいたのは江戸氏、豊島にいたのは豊島氏、葛西にいたのが葛西氏と、おのおの居住地の地名をとって姓とした。江戸氏はその後約200年ほどこの地におり、江戸氏十八支流(六郷殿、丸子殿、鵜ノ木殿、蒲田殿、飯倉殿、金杉殿、桜田殿、芝崎殿、小日向殿、中野殿、阿佐谷殿など)といわれる大同族をしたがえ関東の有力豪族として栄えたが、やがて多摩郡の喜多見(現世田谷区内)に移って姓を喜多見氏とかえた。その後大田道灌が城を築くまでの約100年ほどは、江戸は無住の地であったらしい。

 大田道灌が江戸築城にとりかかったのは1456年(康正2年)のことで翌年の1457年(長禄元年)には一応完成したといわれている。

 1590年(天正18年)8月1日に徳川家康が江戸城に入城したが、このときの江戸城は本丸のほかに、二の丸、三の丸があり、また堀もめぐらしてあって一応の城としての体裁を整えていたが、まだ石垣はつかわれていなかった。また城下には萱葺の民家が100軒ほどあるのみであった。

 このような江戸に大改修を加えて日本一の大大名徳川氏の城下町につくりなおしたのが1603年(慶長8年)からはじまる江戸市街地の建設と、1604年(慶長9年)からの江戸城の大改築である。掘割に囲まれた江戸城下町がひとまず完成するのは1636年(寛永13年)のことである。

 1657年(明暦3年)の明暦の大火(振袖火事)で江戸城の本丸から天守閣まで焼いてしまった。江戸城下町はその象徴をなす江戸城天守閣ともども、ほとんど完全に焼き払われてしまった。そのときの死者は10万2千人といわれている。この大火を境に江戸の町は徳川氏の城下町から天下の城下町に都市改造を実施した。

農耕地の増加と小農自立

 戦国末期から江戸時代初頭にかけて大規模の用水土木工事が各地で行われ、その結果わが国農業中心地帯は、溜池灌漑による小盆地的平野地帯および枝川的小規模流水を灌漑源とする谷戸地帯から、大河川の下流域に展開する広大肥沃な沖積層に移るわけである。わが国の耕地面積が江戸時代初頭の終りごろ(1660年ころ)には室町時代の約3倍にもなり、革命的なことである。

 その第一は耕地がもっとも農耕に適した肥沃な沖積地帯に移り、しかもその結果、約3倍という面積の増加に相伴って、わが国の農業生産が飛躍的に発展したことである。

 第二に耕地の急速な増加が、それまで在地小領主たちののもとで、心ならずも半奴隷的従属状態におしこめられていた直接生産者である下層農民たちに、自立の条件をあたえたという点である。このような状況を「小農自立」と呼んでいる。

 しかし、ゆきすぎた新田開発のために、全国いたるとこで洪水が頻発した。また、農民たちは年貢のかからない新田開発に熱中するあまり、それまでにある田畑の管理手入れを怠り、多量の荒廃田を生む結果になったのである。幕府は、1666年(寛文6年)に「諸国山川掟」という法令を出して、従来の開発至上主義政策にストップをかけ、以降はすでにできている田畑をていねいに管理耕作することによって、収穫をふやそうとする本田畑中心政策に移行する。限られた耕地に可能な限りの労力を投入して、一粒でも多くの収穫を得ようとする園地的精農主義農政はこのときからはじまり、日本の基本的農政でもあり、農耕思想でもあった。

石高制原理と身分制原理の動揺

石高制原理の動揺

 領主や武士たちの経済は米で年貢や俸禄を入手し、それを売って得た金で必要な生活物資を買入れるという仕組みになっている。このような石高制社会の仕組みは米の値段が他の一切の諸物価の中心になり、米の値段が上下すればそれにつれて他の物価も上下するということを前提としてはじめて成立する。そしてまた江戸時代前半期、つまり元禄時代ごろまでは、完全にそうなっていたのである。

 ところが元禄時代の終りころから、米価が下落したにもかかわらず、諸色(諸商品)値段が下がらないという新しい形の物価問題がおこってきたのである。“米価安の諸色高”に対応することが享保政治の最重要問題になるのである。結局のところ幕府は米価を政策手段によって引上げ(支持価格)、一方消費物質(諸色)を増産し、その流通コストを適正化することによって、なんとかそのバランスを保つのである。

身分制原理の動揺

 領主と農民の関係は、労働の成果を取る側と取られる側の関係であるので、最初からその対立は歴然である。 近世初頭においては領主階級と農民階級のあいだには“甘き蜜月”的な関係が存在しており一揆の発生件数はそれほど多くはなかった。その関係が薄れ両者の間に介在する矛盾が激化するにしたがって、一揆の発生件数は短期的な波動をえがきながら確実に幕末にむかって増加していく。享保期は百姓一揆の第一次高揚期で、それまでの一揆がほとんど私領におこっていたのが、この時期になると天領に一揆が多発するうえ、将軍のお膝元の江戸にまで打毀しがおこっている。