大停滞              タイラー・コーエン著

 いま、アメリカ経済が抱えているすべての問題の根底には、一つの見落とされがちな事実がある。 私たちは過去300年以上、いわば、”容易に収穫できる果実”を食べてきた。 経済の繁栄をもたらす果実がふんだんにあるという前提のもと、社会と経済制度を築いてきたのだ。 しかし私たちは、そういう果実をほとんど食べつくしてしまった。 アメリカ経済は少なくとも17世紀以降、新しい有益なテクノロジーなど、経済版の”容易に収穫できる果実”に恵まれてきた。 40年ほど前、その果実が手に入らなくなりはじめると、私たちは、それに気づかないふりをするようになった。 しかし現実には、経済がイノベーションの停滞期に入っており、果実の木々は目を背けたくなるくらい丸裸になっている。 簡単に言えば、それがいまの状況だ。 特定の事件が原因で経済成長が鈍化したわけではない。 これまでの成長の源泉が枯渇しつつあるにもかかわらず、次の源泉をまだ見いだせていないことに、問題の本当の原因がある。 アメリカの歴史を振り返ると、主に三種類の”容易に収穫できる果実”が経済成長を後押ししてきた。

1 無償の土地

 19世紀末まで、アメリカには手つかずの肥沃な土地がふんだんにあり、自由に利用できた。 ヨーロッパから移住した人たちは新天地で勤勉に働き、祖国にとどまった農民たちとは対照的に生活水準を高められた。 アメリカは比較的短い間に、世界で最も豊かな国になった。 1783年の独立後ほどなく、その地位は確立されていった。 このようなアメリカの大変貌は、肥沃な土地ときわめて自由度の高い社会が組み合わさった賜物という面が大きかった。 アメリカは、未開の土地から莫大な恵みを得ていただけではない。 豊富な資源に引き寄せられて、ヨーロッパのきわめて優秀で向上心ある人たちが続々とアメリカに移住してきた。 そういう移民労働者を受け入れることによっても、アメリカ経済は、”容易に収穫できる果実”を摘んでいたのである。

2 イノベーション(技術革命)
 1880年から1940年にかけて、数々の目覚ましい新技術が私たちの生活に取り入られた。 電力、電灯、強力なモーター、自動車、航空機、家電製品、電話、水道、医療品、大量生産システム、タイプライター、テープレコーダー、写真、テレビなどが登場した。 鉄道や高速船舶はそれ以前から存在したが、この時期に急速に普及し、世界経済の一体化を推し進めた。 もう少し期間を広げると、農業の分野でも収穫機や草刈り機などの農業機械が相次いで導入され、強力な農薬が次々と開発された。 この時代に取り入られたテクノロジーの多くは、強力な化石燃料エネルギーで最新の機械を動かすという発想に立っていた。 この二つの要素の組み合わせはそれまで人類の歴史に存在しなかったものだが、これ以降、私たちはその種のテクノロジーを飛躍的に発展させていった。 では、今日の世界はどうか。 一見すると魔法のテクノロジーに思えるインターネットを別にすれば、物質的な面に限ると、私たちの暮らしは1953年以降たいして変わっていない。 自動車も、冷蔵庫も、電気照明も当時すでにあった。

3 未教育の賢い子どもたち
 1900年のアメリカは、高校卒業年齢の人口に占める高校卒業者の割合が6.4%にとどまっていた。 1960年には、この割合が60%に達した。 わずか60年で、高校卒業率が10倍近く上昇した計算になる。 この数字は1960年代後半に約80%まで高まったが、その後は下落に転じ、いまは最も高かった時期より6%ほど低い数字になっている。 20世紀はじめには、隠れた天才たちが大勢、適切な教育を受けず、文字どおり畑に縛りつけられていた。 頭脳明晰で向上心の強い若者をそうしたくびきから解き放ち、高校に通わせれば、経済の生産性を大幅に向上させられた。 20世紀を通じて、高校だけでなく、大学への進学率も上昇した。 1900年の時点で大学に通う人は400人に1人しかいなかったが、2009年には18〜24歳のアメリカ人の40%が大学に通っている。 しかし、21世紀に、このような大きな進歩は期待できない。 むしろ、いくつかの重要な面で状況が後退している。

 1970年頃まで、アメリカの経済成長はこの三種類の”容易に収穫できる果実”に支えられていた。 しかし今日では、そのすべてがかなり食べつくされてしまった。 現時点で、”容易に収穫できる果実”が非常に乏しいという事実は否定しようがない。 インターネットを別にすれば、私たちは過去数十年、ものごとの漸進的な改良によって、かろうじて経済を成長させてきた。 だが、その程度の進歩では、生活水準を飛躍的に向上することはできない。 さしあたりは、私たちが過去に経験したことがないくらい、景気後退が長引くことを覚悟する必要がある。 目下の景気後退を脱しても、まだ低成長が続くかもしれない。 科学に限界があることを受け入れなくてはならない。 この先も、科学の進歩が停滞するときがあるだろう。 深刻な停滞に陥る時期もあるに違いない。 それでも、理性と科学の重要性はこれまでになく高まっている。 なによりも、現在の難しい状況をもっと理性的に、そしてもっと科学的に理解できれば、知的な面でも情緒的な面でも困難に対処しやすくなる。


「新結合=イノベーション」とは何か
シュンペンター(1883〜1950)は『経済発展の理論』のなかで、次の五つを挙げています。
1 新しい財貨の生産
2 新しい生産方法の導入
3 新しい販路の開拓
4 原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得
5 新しい組織の実現(例えば、トラストの形成や独占の打破)

イノベーションとは、経済活動において旧方式から飛躍して新方式を導入することである。 イノベーションの訳語として「技術革新」という言葉をあてると、五つのうちせいぜい二つ(1と2)くらいしか網羅できない。