武士の家計簿        磯田道史みちふみ

 加賀藩の御算用者おさんようもの(会計処理の専門家であり、経理のプロ)だった猪山いのやま家の家計簿が、天保十三年(1842)七月から明冶十二年(1879)5月まで三十七年二ヶ月間も書き続けられており、欠けているのは一年二ヶ月分だけで、ほとんど完全な保存状態で残っている。
 藩の行政機関は、身分制と世襲制であったが、ソロバンがかかわる職種だけは例外になっており、御算用者は比較的身分にとらわれない人材登用がなされていた。御算用者も世襲ではあったが、家中の内外からたえず人材をリクルートしていたし、算術に優れたものが養子のかたちで入ってきていた。そうしなければ役所が機能しないからである。

 天保十四年の猪山家の年収は父の信之が銀1321.30
もんめ(530万円)、嫡子の直之が銀1754.89匁(700万円)で、合計銀3076.19匁(1230万円)ということになる。(銀1匁=4000円、金1両=30万円で換算、天保十四年七月の金沢では金1両=銀75匁であった)
 猪山家の負債総額は銀6260匁(2504万円)に及び、年収の約2倍である。しかも、この借金の利子が高く、年利18%というのが最も多く、年利15%は低いほうであったから、悪くすると1年に1000匁(400万円)を超える利払いが発生していたと考えられる。利子を払うだけで、年収の3分の1がもっていかれるのである。猪山家は借金地獄に落ちていたといってよい。
 あまりに借金が多くなったので、猪山家では「借金整理」の決意をした。猪山家は猛烈に家財道具を売り払っている。総額で銀2563.93匁(1025万円)にもなる。猪山家の借金返済にかける「不退転の決意」は評価され、直之の妻の実家が動いてくれた。猪山家の借金整理の原資として銀1000匁(400万円)を無償で提供すると申し出たのである。さらに、勤務先から銀500匁(200万円)の借用に成功したのである。合わせると約4064匁(1625万円)になる。借金総額は6260匁(2504万円)だったが、この約4064匁(1625万円)で「借金整理」の交渉を開始したのである。小さな借財は、この金で返済していった。
 しかし、どうしても2200匁(880万円)ぐらいの借金が残ってしまう。そこで、大口融資先相手に「元金の四割をこの場で返済する。そのかわり残りは無利子十年賦にしてもらいたい」と交渉し、この交渉は見事に成功した。猪山家の「痛み」は債権者にも伝わっていた。すでに家財を売り払っており、逆さまにして振っても、何も出てこないことは明らかであった。これが最後の回収チャンスだということはわかりきっていた。元金の四割がこの場で回収でき、無利子だが十年賦で残金を返してくれるということで債権者が合意した。これらによって、借金総額は2600匁(1040万円)に減じ、しかも、そのほとんどが無利子になったのである。猪山家の家計は、利払いの圧迫から解放され、破産の淵からよみがえった。

 武士家計の特徴は、召使いを雇う費用、親類や同僚と交際する費用、武家らしい儀礼行事を行う費用、そして、先祖・神仏を祭る費用の比率が百姓町人よりも高い。この費用を支出しないと、江戸時代の武家社会からは、確実にはじきだされ、生きていけなくなる「身分費用」である。
 江戸時代のはじめ、十七世紀ごろまでは、武士身分であることの収入(身分収入)のほうが、武士身分であることによって生じる費用(身分費用)よりも、はるかに大きかった。武士の俸禄は多かったし、身分による行動制限は少なく、金融行為の規制もゆるやかだった。ただ、家来は多く、身分費用のなかの人件費は多かった。
 ところが、幕末になってくると、武士身分の俸禄が減らされて身分収入が半減する。しかし、武士身分であるために支払わなければならない身分費用はそれほど減らない。十七世紀に拝領した武家屋敷は大きなままで維持費がかかる。また、家の格式を保つための諸費用を削るわけにはいかなくなっていた。そのため、江戸時代の終わりになると武士たちは「武士であることの費用」の重圧に耐えられなくなってきていた。