BORN TO RUN 走るために生れた       クリストファー・マクドゥールガル著 近藤隆文訳

 チンパンジーは人間に最も近い現存種だ。われわれのDNA配列の95%はチンパンジーと共通している。共通していない点に注目した。アキレス腱は人間にあって、チンパンジーにはない。人間の足には土踏まずがあるが、チンパンジーにはない。人間のつま先は短くてまっすぐなので、走りやすいのに対し、チンパンジーは長くて広がっており、歩くのに適している。また、人間には大臀部がたっぷりついているが、チンパンジーにはまったくないに等しい。頭の後ろの腱、項靱帯(こうじんたい)に注目した。チンパンジーには項靱帯がない。豚にもない。あるのは、犬、馬、そして人間だ。項靱帯は、動物が速く動くときに頭を安定させる働きしかないため、歩く動物には必要ない。大きな尻も必要なのは走るときだけだ。走りだして初めて固く引き締まる。尻の役目は上半身の動きにつられて顔面から転倒するのを防ぐことにある。同じように、アキレス腱も歩くときには何の用もなさない。チンパンジーにないのはそのためだ。われわれの祖先である400万年前の猿人、アウストラロピテクスにもアキレス腱はなかった。アキレス腱の痕跡が見られるのは、200万年後のホモ・エレクトゥスからだ。アウストラロピテクスの後頭部はなめらかだったが、ホモ・エレクトゥスは項靱帯が収まる浅い溝がある。人間の身体は走る動物の特徴を採り入れたのだ。偉大なランナーにはふたつの種類がある。短距離走者とマラソン走者だ。人間にとって走ることは、速く進むことではなく、遠くへ行くことなのかもしれない。われわれの足と脚にはばねのような腱がつまっているのも説明がつく。腱を伸縮する幅が広がれば広がるほど、脚を伸ばして振り戻したときに大きな自由エネルギーが得られるわけだ。腱は歩行には無関係だが、エネルギー効率のよい跳躍をする上で大きな意味を持つ。身体の熱の大部分を発汗によって発散する哺乳類は人間しかいない。毛皮で覆われた動物は、もっぱら呼吸によって涼をとり、体温調整システム全体が肺に託されている。汗腺が数百万もある人間は、進化の市場に現れた史上最高の空冷エンジンだ。ばねのような脚、ほっそりした上半身、汗腺、無毛の皮膚、太陽熱をためにくい直立した身体、われわれが世界一のマラソン走者であるのも不思議ではない。

 猿人、アウストラロピテクスは、頭が小さく、顎が大きく、固い繊維質の食べ物を食べていた。200万年前に登場したホモ・エレクトゥスは、ほっそりして脚は長く、生肉ややわらかい果実を噛みちぎるのに適した歯をもっていた。過去の霊長類が口にしたことがない、安定供給される肉を中心とした、カロリー、脂肪、たんぱく質を豊富に含む食事だ。弓矢が発明されたのは2万年前、、槍の穂先は20万年。とすると、ヒトは出現してからほとんどの時間、素手で肉を獲得していたことになる。われわれの脚がかっての必殺兵器だった。動物が死ぬまで走らせるのだ。レイヨウを死ぬまで走らせるには、暑い日におどして全力で走らせるだけでいいはずだ。10kmないし15kmほど走らせれば、体温が異常に高くなって倒れこむだろう。われわれは走りながら熱を発散できるが、動物は疾走しながら激しくあえぐことはできない。われわれはほかの動物には無理な条件下でも走ることができる。人は走るために生まれ、走るために進化してきた。つまり、走ることは人間の本能なのだ。