明治維新と幕臣 「ノンキャリア」の底力            門松秀樹著

 江戸幕府の統治が安定したことによってもたらされた「天下太平」によって醸造された幕臣のサラリーマン化は、明治維新に際して大きな影響を及ぼした。戊辰戦争中、各地の奉行所などの幕府の行政機関を接収した明治政府は、在職の幕臣を継続的に登用する方針を示す。多くの幕臣が明治政府による継続登用、すなわち移籍の要請に応じ、引き続き、江戸幕府から明治政府に看板を掛け替えた職場に留まって仕事を続けたのである。武士の主従関係は、鎌倉時代以来、主君の「御恩」に臣下が「奉公」で応えることを基盤として成り立っている。「御恩」と「奉公」の関係に支えられ、将軍への忠誠心が強固であれば、多くの幕臣が明治政府の登用に応ずる結果とはならなかったであろうが、江戸幕府による「天下太平」は、幕臣のサラリーマン化をもたらし、江戸幕府を倒した明治政府に多くの旧幕臣が仕える皮肉な結末を迎えた。日本という国家全体を考えれば、戊辰戦争という動乱の最中も、幕臣の多くが元の職場で粛々と働いたことで、行政機能の喪失を回避し、混乱の拡大を抑止する成果を導いたといえる。明治維新に際して、戊辰戦争に戦地となった場所は例外として、全国津々浦々が混乱を極め略奪や暴行が横行したという事態には至っていないということは、少なくとも社会生活を維持できるような秩序が保たれていたことになる。つまり、行政が機能しない状態にはほとんどならなかったということになる。

 明治維新に際して、旧幕臣は、様々な局面で明治政府を支えている。王政復古の大号令に発足を宣言した明治政府が政権をとして機能できるか否かは、全国統治を行うための行政機構・組織を確立できるかにかかっていたと言っても過言ではない。全国統治を行うための行政機構・組織を持たず、最も明治政府が脆弱であった時期に、政府首脳の手足となって、明治政府に実体を与えたのは、江戸幕府から継承した行政組織であった。以後、明治四年(1877)の廃藩置県の断行により、明治政府が中央集権体制を確立して政権基盤を安定させるまでの間、明治政府の行政を支えたのは、鳥羽・伏見の戦い以降、明治政府によって積極的に継続登用された旧幕臣たちであった。彼らの多くは行政の第一線職員として働く御家人や下級の旗本であった。

 廃藩置県により明治政府がその基盤を固めてからは、明治維新に際して継続的に登用された旧幕臣が徐々に明治政府を去っていくが、その一方で、政策形成に関与し得る奏任官(そうにんかん)以上のポスト(キャリア)に登用される幕臣が増加していく。加えて、実務官僚層である判任官のポスト(ノンキャリア)にも引き続き多くの旧幕臣が登用されている。明治政府の求める人材の要件が、「行政機能の維持を優先する」ことから「近代化政策の推進」に変わっていくことで旧幕臣の入れ替えが生じたとはいえ、明治政府の行政を旧幕臣が支える状況は継続している。明治政府を支えたのは薩摩・長州を筆頭に明治維新に主導的な役割を果たした土佐・肥後それに旧幕臣が登用されている。こうした傾向は明治二十六年(1893)の文官任用令によって官僚の試験任用制度が確立し、いわゆる「藩閥官僚」の時代から「学士官僚」の時代に移行するまで続いた。

 明治政府で活躍した旧幕臣といえば勝海舟や榎本武揚(たけあき)を筆頭に、渋沢栄一や林董(ただす)、大鳥圭介(元老院議官から後に朝鮮公使)、さらには外務省や司法省の官僚、元老院議官を経て言論界・教育界で活躍した西周(あまね)や津田真道、加藤弘之(後に帝国大学総長)など、著名な人物を挙げることができる。海軍や鉄道関係をはじめとする技術部門に目を向ければ、さらに多くの旧幕臣の存在を見出すことができる。ただ、明治政府の草創期に政府を支え、維新の改革が軌道にのるまで支え続けたのは、無名に近い、行政の現場にあった旧幕臣たちであった。