飛鳥 歴史と風土を歩く        和田あつむ

 飛鳥の開発は優れた土木技術を有した倭漢やまとのあや氏をはじめとする渡来系氏族により進められた。倭漢やまとのあや氏は、単一の氏族ではない。蘇我氏のもとにあって、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わった渡来系氏族の総称であった。倭漢やまとのあや氏は朝鮮半島南端部の阿邪あや(安羅)伽耶かやから列島に渡来した氏族故地の阿邪にちなんで倭漢氏、すなわち「列島に住むアヤヒト」と称された。
 六世紀前半(536年)の宣化せんか朝に蘇我臣稲目そがのおみいなめ大臣おおおみに任命され、大和政権の執政官の一人となった。稲目の後、その子馬子うまこ(572年)、孫の蝦夷えみし(626年)も大臣おおおみとなり、政治権力を掌握する。蘇我氏のもとにあって、外交・財政面の実務を担ったのが倭漢氏やその支配下にあった今来漢人いまきのあやひとと呼ばれる人々だった。今来漢人いまきのあやひとは、475年、高句麗の攻撃により、百済の首都、漢城が陥落した際、百済や伽耶から渡来した人々だと考えられている。倭漢氏はまた、優れた軍事力をもち、蘇我氏の権力強大化の背景となったのである。倭漢氏の祖、阿知使主あちのおみとその子都加使主つかのおみが渡来し、大和国高市郡檜隈郷ひのくまごうの地を与えられたことが『日本書紀』の応神天皇二十年九月条などにみえる。

 飛鳥は七世紀の歴史の表舞台だった。崇峻すしゆん五年(592年)十二月、推古天皇が豊浦宮とゆらのみやに即位して以後、和銅三年(710年)三月に平城京へ遷都するまでの間である。その間、一時期、国政の中心地が飛鳥を離れたことがある。皇極四年(645年)に起こった「乙巳いつしの辺」(大化の改新)後の孝徳朝に難波宮(645〜564)、天智朝に近江宮(667〜671)に移った。皇極女帝が再び即位して斉明天皇(655〜661)となった飛鳥では、激動する東アジア情勢を背景に大土木工事が相次いだ。天智没後の天武元年(672年)に皇位継承をめぐって壬申の乱が勃発した。飛鳥も戦闘の場となったが、乱後の天武・持統朝(672〜697)に、律令国家体制がほぼ確立する。在来の倭国の文化は、仏教文化や遣隋使・遣唐使がもたらした中国文化の影響を受けて、推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化の花が開いたのである。
飛鳥全図 飛鳥京中心部

飛鳥京苑池遺構 酒船石遺跡
飛鳥寺(法興寺)
崇峻すしゆん元年(588年)、蘇我馬子は真神原の地に、氏寺として飛鳥寺を建立し始めた。また推古朝になると桃原に「嶋の宅」を構え、飛鳥は蘇我氏の権勢の表舞台となった。

石舞台古墳
蘇我馬子の桃原の墓

石神遺跡
新羅などの外国使節や蝦夷・隼人などの化外の人々をもてなす施設だったと推定されている巨大な建物の中で、あるいは石敷広場で、それらの人々を迎えて饗宴が行われ、建物は宿泊機能を併せ持っていた。

水落遺跡
水時計(漏尅ろうこく)の遺跡

飛鳥京跡
上層・中層・下層の三層から、宮殿遺構が重複して検出されている。そのうち上層A期の遺構は斉明朝の後飛鳥岡本宮、上層B層は天武・天智朝の飛鳥浄御原宮きよみがはらのみやであることがほぼ確定した。中層は皇極・斉明朝の板葺宮である可能性が大きい。下層は舒明じょめい朝の飛鳥岡本宮
と思われるが、解明は進んでいない。

飛鳥池遺跡
七世紀後半から八世紀初頭まで稼動した官営工場の跡である。富本銭鋳造工房の発見は、これまでわが国最古の銅銭は、和銅元年(708年)に発行された和同開珎だと考えられてきたが、七世紀後半に飛鳥池遺跡で富本銭が鋳造されていたことが判明した。

酒船石遺跡
酒船石丘陵の北裾から亀形石槽が発見され、続いてその南側から小判形石槽、さらに南側の山際から湧水塔が検出された。遺構は斉明朝に造営され、壬申の乱後の天武朝に再整備された湧水施設で、ここでは国家的な儀礼が行われた。


飛鳥京跡苑池遺構
苑池は東西80メートル、南北200メートルにも及ぶこと、池は斉明朝(七世紀中葉)に作られ、天武朝(七世紀後半)に整備されたことが判明している。池にはハス・オニバスが植えられ、清流にしか育たないミズアオイが広がっていたことがわかった。またモモ・ウメ・スモモなどの果樹園
があったようである。

舒明じょめい天皇(在位629〜641)が香具山に登りて望国くにみしたまふ時の御製歌