あしたの経済学        竹中平蔵著

 日本人の実質的な生活水準は、100年前の30倍程度になっています。国土が狭く、特別の天然資源を持たない日本が、高い生活水準を実現したことは、日本国民の努力の結果です。いまもわれわれは、世界がうらやむような十分な力を持っています。
 逆に、いまの日本経済の停滞の背景には、それをもたらしたしかるべき要因があり、これらを忍耐強く解決していく以外に道はありません。一夜にして日本経済を再生させる「魔法の杖」は存在しないことを認めた上で、企業・個人・政府それぞれ本来なすべき改革を実行する以外に道はありません。

 1990年以降、生産性の伸びが低下基調にあります。それと同時に稼ぐ力の伸び、つまり潜在成長率も低くなっています。日本の中にはお金や時間を無駄に使ってきた部分が多く存在します。それが生産性を低くしている要因です。無駄をなくして効率的なシステムにして生産性を上げることができれば、日本全体の「稼ぐ力」はもっと上がる可能性があるということになります。いまは非効率なところが多いために、本来の実力を発揮できていないのです。無駄の一つが、不良債権です。不良債権は、国民の大事なお金が生産性の低いところに貸し出されて、それが回収できなく塩漬けになっているものをいいます。国民のお金を生産性の高いところに集まれば、社会全体としての「稼ぐ力」も高まります。生産性の低いところから生産性の高いところにお金や労働力が移るようにすれば、日本は年率2%程度の成長が十分に可能です。
 ただ、この不良債権という問題は非常に厄介で、これを解きほぐしていく過程ではいくつかの摩擦も起こります。小泉総理がいう「改革に伴う痛み」とは、まさにこの瞬間に生ずる摩擦熱のようなものです。ただ、摩擦熱が怖ろしいからといって何もしなければ、日本経済はもっと悪くなっていきます。小泉改革のシナリオは、構造改革をやれば、実力どおりの2%成長ができるというものです。しかし、何もしなければ長期的に見てゼロ成長、悪くすればマイナス成長になってしまう可能性があります。
 改革に反対する人のなかには、「その摩擦をしのげない。いまの日本経済はその摩擦に耐えられない」という人がいます。また、専門家のなかには、「ここをしのごうとすれば、経済が連鎖的に悪くなって2%成長どころではなくなる」という人
(リチャード・クー、植草一秀)も一部にいます。
 そもそも日本の経済の本質はそれほど弱くはないはずです。現状が厳しいのは確かです。しかしそれでも、経済は極端なマイナス成長ではありません。「連鎖的に、破滅的に悪くなる」というのは必要以上に悲観的すぎるのではないでしょうか。
 2%成長を続ければ、35年間で生活水準を2倍にできるのです。ゼロ成長ならば35年後の生活水準は現状と同じ、2%成長では現状の2倍ですから、その差はGDPで測れば、約500兆円です。この差分が、「改革しなかったコスト」です。

 銀行の不良債権を含め、不良な資産を抱えている企業は日本には少なくありません。リスクをとってチャレンジしなければリターンはありません。しかし、不良な資産をたくさん持っていると、さらに新しいリスクをとることが非常に難しくなります。新しいことにチャレンジしていくには、まず最初に、不良な資産とその裏にある過剰な借入金を処分しなければなりません。これが何をするにも大前提になります。
 不良債権を処理することによって生まれるのは、「リスクをとることができる健全な状況」です。景気がよくなるかどうかはまたその先の問題で、リスクをとって成果が上がるビジネスをしなければ景気はよくなりません。不良債権処理は、景気をよくするための必要条件ではあるけれども十分条件ではありません。
 さらにもう一つ、金融部門が不良債権を抱えていると、それに対して企業や個人が不安感を抱いてしまい、それが心理面から、投資や消費を抑え込んでしまうという面もあります。
 2004年度までに銀行の抱えている不良債権問題を終結させるため、2002年10月に「金融再生プログラム」を発表しました。銀行や金融システムの信頼を回復するために、貸し出しに対する不良債権の比率を現在の半分程度にするという目標を掲げました。現在の不良債権比率は8.1%ですが、これを2年半で4%程度にしようというものです。金融再生プログラムでは、主要行の不良債権処理を進めるための三つの原則を示しています。第一が、不良債権かどうかの査定(資産査定)を厳格にすること。第二は、自己資本を充実させること。そして第三は、コーポレート・ガバナンス、つまり銀行の経営をしっかりやってもらうことです。要するに、当たり前のこと当たり前にやりましょう、というのが金融再生プログラムなのです。

 景気が悪いからといって安易に財政を拡大していくのは大きな危険が伴います。安易に財政を拡大すると、日本国債の市場が不安定になる可能性が拡大していきます。現在の日本は、こうしたリスクを背負いながら、ギリギリの狭い道を進まざるを得ないのが実情です。借金を積み重ねて支出すれば、とにかくいまの景気はよくなるかもしれません。しかし、その負担は将来の世代に行くわけですから、これは私たちが子どもの世代から借金をしているのと同じことになります。これが現役世代と将来世代の最大の問題です。