天才アラーキー写真ノ方法      荒木経惟著

撮る人が写真を作るっつうんじゃなくて、撮られ人と撮る人のコラボレーションなのよ。もし創造とか創作とかいう言葉を使うとしたら、いま言ったような感じをふくめなくっちゃ。写真っつうのは共作なんですよ。カメラもふくめれば、三人の共犯か。写真は3Pである! っつうわけ。

自分で気づかなかったようないいところが写真に出ちゃうってこともあるね。いい意味で暴くとかバラすとかすると、被写体っつうか、相手が気づいていないところを見つけて教えてあげることができるのよ。それが写真の作業なんだ。

撮るときはね、こうこうって決めちゃいけないんですよ。刻一刻、変わっていくのがいい。じゃないと、面白くない。そういうのが生き生きとビビッドに作業するためのテクニックなんだよ。こっちのそういう表情とか、身体の動きとか、そういうのをぶっつけるから、撮られる相手もノってくるしね。こうしろああしろってガーガー言うと相手の気持ちも膠着こうちゃくするでしょ。ソレ、ダメなの、どうでもいいっつうのでなくちゃ。これ、あたしの生き方そのものがそういうふうになっている。

せっかく女の裸を撮っているのに、最後は顔しか撮っていないよ。そりゃね、着ているときの顔と、一時間ぐらい裸で過ごした顔はまた違う。でも、結局顔にいくんですよ。だから、言い方を変えれば、いい顔を撮りたいために裸になってもらうんですよ。だいたいね、下のほうが裸になれば顔も裸になるんです。それだけの作業です、な〜んちゃって。そんで、下半身の顔の写真は、捨てないでちゃんと取ってあるけどね、もったいないから。

人、撮ったら、喜ぶものを公表する、というような感じね。だから、嫌がるだろうなと思うのは顔が写ってないのにするんですよ。顔はその人の商標だからね。『人妻エロス』なんてのも撮っているけど、中年の肉体の美しさ、ということばかりにはならないわけよ。この世紀末のヌードとかも撮れちゃってるわけ。でも、いまはそれは出せない。あと何十年かしたら・・・・・・っていう、そういうヤなところがあるんだよ。

私はね、写真を上から見おろして撮るとか下から見あげて撮るとかはなるべくしないね。水平思考っつうか、それだね。特にね、見おろしちゃいけない。そうかといって見あげるのもいけない。だから、俺の場合は必ず視線をまっすぐ、水平って感じ、パッと。それがいいんだね。それがまあ、俺の基本。

写真は、撮れば誰だって写るのよ。簡単な作業だし、ツいてるとまぐれ当たりが連発する。そういう若いヤツもいっぱいいますよ。いや〜、一枚だけだったら素人写真のほうがいいっつうことだってありますよ。それで間違ってピューリッツァー賞とかなんとかっていうこともあるわけ。目の前で農夫が撃たれて死んだとか、戦場で泣きながら裸の少女が駆けてくるとか、そういう場面に出会って、シャッター切って、そんで英雄になっちゃう。でも、その一枚の後が問題なのよ。その後、なんにもないっていういうことになると怖い。まっ、俺の場合はいま、量っつうんじゃ変だけど、いいな〜と思ったらシャッターを押すように出していくの。創作するっつうより、出していくっつうくらいのテンポになってる。多作ってことになるのかな〜。

生きること、生、それと死。生と死に対する愛、それが写真なんですよ。ファインダーを覗いて、シャッター音が連続するでしょ、そうするっと、その音が止まるのよ。それは死に近い瞬間だと思うんだけど、その死と生の間を行ったりきたりするのが写真でしょう。

写真には過去も未来も入ってるっていっつも言ってるでしょ。じゃあ、写真機は現在を撮れるかっていうと、カメラは現在は写らないと思うのよ。シャッターを押した瞬間は現在だけれさ、写真になってできあがってきたときに写っているのは過去だからね。

そのことをやっているのを、どうしても見せたいとかさ、しらせたいっていうのから写真ははじまるんだよ。そういうのがないと気合が入らないっていうことがあるの。おイタしちゃいけません! っていう権力、警察がいないとダメだな。なんでもど〜ぞっていうとダメなんだよね。いけないって言われてることをやるもんなんですよ。絶対そうなんだよ! 基本はそうだな、絶対。

まとめ

 天才アラーキーの写真の方法は、絶対的な方法はなく撮られる人との共同作品であり、写真撮影の状況変化にあわせて時々刻々に変化してゆき、撮られる人の気づいていない良いところを見つけ出すところにある。私の好きな写真家は荒木経惟、加納典明、篠山紀信といるが、一番ドキッとする写真を撮るのは荒木である。

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