矛盾だらけの日本の安全保障 「専守防衛」で日本は守れない             冨澤暉・田原総一朗著

 著者の富沢暉(ひかる)は防衛大学卒業後、昭和35年に自衛隊に入隊している。戦車大隊長(北海道上富良野町)普通科連隊長(長野県松本市)、師団長(東京都練馬区)、
方面総監(北海道札幌市)、陸上幕僚長(東京都港区)を歴任している。退官後は、東洋学園大学理事兼客員教授として、安全保障、危機管理を担当していた。

 
小さな島を要塞化して守るということはあるが、日本列島は北から南まで約3千kmである。しかも海岸線をぐるりと回ると3万km近くある。この3万kmを要塞化することは不可能なことだ。こちらからは攻めていかなくても、向こうが弾を撃ってきたらば叩き落とせばいいというが、そういうことは絶対できない。そういう技術はまだないし、仮に技術ができたとしても、3万kmの正面全部でそれをやるには、天文学的な金がかかる。専守防衛が安全保障の基本的な概念だと思い込んでいる。日本の安全保障は妄想の産物だということになる。

 自衛隊は、最高指揮官である総理大臣の武力行使命令、すなわち防衛出動が出れば手段を問わず武力行使ができる。戦時には内閣総理大臣が国会の了承を得て防衛出動命令を出す。

 世界の平和と安全を乱すような国が現れたとして、それらを懲らしめるため、最後の手段として武力行使を行うとしましょう。しかし、国連自体は軍隊を持っておらず、持っているのは加盟国です。それぞれの国は国連の求めに応じて軍隊を派遣する。これは国連に加盟しているゆえに生ずる義務です。国連ができたとき、これからはすべて集団安全保障でやろうという理想がありました。それぞれの国が独自の判断で武力行使をするのはもうやめようということです。集団安全保障が加盟国の義務だとすると、憲法上武力行使ができないというのも理屈に合わない。それならなぜ国連に加盟したんだという話になる。

 『ア―ミテージ・レポート』に日本が国連の常任理事国になることにアメリカは賛成する。しかし常任理事国には集団安全保障の義務が伴うことを忘れてはいけないと。

 国連安保理が決定すれば加盟国がみんなで武力行使して助けてくれるとしても、その決定が間に合わなかったらどうするのかという不安の声が上がった。集団安全保障が動くまでの間、各国の個別の権利として個別的自衛権及び集団的自衛権を認めるということになった。自衛のための武力行使ができるように個別的自衛権と集団的自衛権の規定が国連憲章第五一条に明記された。集団的自衛権を行使し合うという形で同盟を結ぶことができるようになりました。その代表的な例がNATOです。

 これまで自民党単独政権も自公連立政権も、「日本国に集団的自衛権はある。しかし、憲法上、行使できない、許されない」という解釈をしてきました。ところが安倍さんは、これまでの解釈はかつての禁治産者の論理(財産の権利はあるけれども自分の自由にはならない)だと言っています。(『美しい国へ』)安倍さんは集団的自衛権の行使は限定的にやるが、集団安全保障はやらないと言った。安倍総理が集団安全保障をやらないと明言したのは、政治的に難しいというほかに、一般に武力行使を伴う海外派兵は、憲法上許されないというのが歴代内閣の解釈ですから。湾岸戦争は、武力行使を認める国連安保理決議が通った以上、日本は国連加盟国なのだから本当はこれに参加しなければいけなかった。武力行使はいけないけれども兵站活動よいというのが政府の見解です。

 集団的自衛権は国家の権利ですが、集団安全保障は国連や国際社会の要請からくる加盟国の義務です。そこでの武力行使は国連の一員としての武力行使であり、したがって、憲法九条が放棄した武力行使とは別物なのです。我々は集団的自衛権ばかりに目を奪われていてはいけないということです。それよりもっと広い概念である集団安全保障に目を向けるべきです。国連ができたとき、これからはすべて集団安全保障でやろうという理想がありました。それぞれの国が独自の判断で武力行使をするのはもうやめようということです。