アイヌの世界     瀬川拓郎著

 アイヌが基本的には北海道縄文人の末裔であることはまちがいない。アイヌのクマ祭りは縄文時代にの祭りに由来すると考えている。アイヌ語も縄文語の伝統を受け継ぐものだろう。アイヌの伝統の形成には、和人やオホーツク人との他者との交流が深くかかわり、開かれた世界のなかでみずららの文化とアイデンティティを形成してきた。北海道の考古学的な文化は、縄文文化以降、本州の弥生・古墳・飛鳥時代に並行する続縄文文化、奈良・平安時代に並行する擦文(さつもん)文化、鎌倉時代以降はアイヌ文化が継起した。北海道で継起したこれらの文化の変遷が連続的であり、縄文文化以降、アイヌ文化まで断絶はなかったと考えられる。文化的にみれば、アイヌは北海道縄文人の後継集団であることにまちがいない。本土日本人やオホーツク人との混血がおこなわれたとしても、アイヌに連なる文化的伝統やアイデンティティは縄文文化から連綿と、しかし変容を遂げながら受け継がれてきた。

 七世紀後葉、青森から移住した農耕民の影響によって、「農耕する狩猟民」の文化である擦文文化が道央の石狩低湿地で成立した。しかし、道北と道東はまだオホーツク人が占拠しており、古代のアイヌである擦文人は石狩低地帯以南を占めるにすぎなっかた。ところが、九世紀末になると擦文人が一気に全道に進出した。擦文人のこの爆発的拡大によってオホーツク人は北海道から排除された。擦文人は「農耕する狩猟民」として成立したが、その後はさらに交易民、海洋民、また戦う民として生きてきた。九世紀以降、擦文人が進出し、占拠した地域はサハリン南半、北海道、千島だった。さらにその活動範囲は大陸のアムール川下流域とカムチャッカ半島南端までおよんでいた。

 オーホーツク文化はサハリン南部で四世紀に成立し、同時に北海道の北部に南下した。その後、道東のオホーツク海沿岸伝いに千島まで展開していった。かれらは、船の活発な利用と漁撈海獣猟など強い海洋適応を特徴とし、農耕やブタの飼育もおこなうなど、同時期の北海道の続縄文人とは大きく異なる文化をもっていた。大陸東北部の靺鞨(まつかつ)系集団と関係が深く、そのため青銅製の装飾品など大陸の製品が流通していた。アイヌとは異なる寒冷適応の形質的特徴をもつ北方モンゴロイド集団であり、現在サハリン北部などに暮らすニヴフに連なる人びとと考えられている。北海道に南下していたオホーツク人は、九世紀末にサハリンに撤退した。この撤退ののなかで道東にオホーツク人の一部が取り残されることになった。取り残されたオホーツク人は擦文文化の影響を強く受けたトビニタイ文化に変容しながら、道東の一部地域に追いやられ、十二世紀末ころはすべて擦文人に同化されてしまった。この同化の過程でオホーツク人の飼いグマ儀礼が擦文人に伝わり、近世のアイヌ文化の中核をなすクマ祭りの起源になったのではないかと考える説がある。

 縄文時代の社会では、イノシシにまつわる儀礼が広く共有されていた。そのため北海道にはイノシシが生息していないが、「縄文イデオロギー」とでもいうべきこの汎列島的なイノシシ儀礼を、生態系の差異を超えて共有しようとしていたにちがいない。弥生時代を迎え、農耕社会に移行した本州では、縄文イデオロギーが変容し、その象徴としての飼いイノシシ儀礼が意味を失っていった。いっぽう北海道では、「商品」になったクマが社会的に重要な意味をもち、さらに猟の活発化にともなってクマ儀礼も頻発におこなわれるようになった。縄文時代のイノシシ儀礼のモチィーフを継承しつつ、社会をとりまく変化に適応したのが続縄文時代の飼いグマ儀礼であり、それは絶えることなく近世まで継承されていったのではないだろうか。

 七世紀の中頃、越国守の阿部比羅夫は大船団を率いて、日本海を北に向かった。『日本書紀』の斉明六年(660)三月条に次のようにのべている。

 王権の命をうけた阿部臣は、二〇〇艙の船軍を率い、陸奥の蝦夷(えみし)を乗せて大河のほとりまできた。そこには渡嶋(わたりじま)の蝦夷一千人余りがおり、「粛慎(みしはせ)の船軍が多数来襲し、われわれを殺そうとする」と阿部臣に訴えた。そこで阿部臣は粛慎の拠点である幣賂弁嶋(へろべのしま)を討った。粛慎は柵にたてこもり戦った。能登臣馬身龍(のとのおみのまむたつ)が戦死し、粛慎は敗れて自分たちの妻子を殺した。

 粛慎(みしはせ)から生きたヒグマが阿部比羅夫側にわたっていることから、ヒグマが北海道産との前提にたてば、渡嶋(わたりじま)は北海道をさすと考えてまちがいない。渡嶋蝦夷は続縄文人、粛慎はオホーツク人と考えられる。陸奥の蝦夷は五世紀以降東北北部に北上し、続縄文人と混在して交易を行っていた古墳社会の人びとで、王権からは移民族視されていた。かれらの文化は東北以南の古墳社会の文化、農耕民の文化となんら変わるところがない。幣賂弁嶋(へろべのしま)が奥利尻島だったとすれば、続縄文人は日本海伝いに道央青森へ往来していたのだから、奥尻島の対岸に結集したことは十分に想定可能だ。

 阿部比羅夫遠征以前に、青森太平洋沿岸の拠点でおこなわれてきた続縄文人と東北北部の古墳社会(蝦夷)の交易は、王権の力のおよばないものだった。王権は東北北部のまつろわぬ民である蝦夷を介してヒグマ皮など北方の産物を入手するという、矛盾した状況に強いもどかしさを感じていたはずだ。また、オホーツク人の介入によって混乱し、流通が滞りがちな状況にも、いらだちを募らせていたに違いない。王権が大軍を派遣して北方世界の混乱に介入した目的は、蝦夷から北方交易を奪いとり、日本海ルートの「官営交易」へ編成しなおすことにあった。この比羅夫遠征を契機として北方世界の交易は、王権の使者が東北北部日本海側の交易拠点を巡回し、北方産品を回収するシステムに移行した。さらに、八世紀前葉に国家の出先機関である秋田城が設置され、そこで北海道の人びとと直接交易をおこなう体制が確立した。比羅夫遠征は、王権が北方産品を独占するための、地ならしの役割を果たしたのだ。