新・ローマ帝国衰亡史         南川高志著

 ローマ帝国衰退の経過に関する伝統的で一般的な説明は以下のようである。四世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動によって「蛮族」の侵入に悩まされ、混乱の中で395年に東西に二分された。410年には「永遠の都」ローマ市もゴート族に占領・略奪されるに至る。そして東の帝国は後にビザンツ帝国として新たな発展を見、一五世紀半ばまで続いたが、西の帝国は、ゲルマン民族の移動と部族国家建設の嵐の中で、476年に最後皇帝がゲルマン人の傭兵隊長に廃位されて、ついに消滅した。

 筆者はイタリアやローマ市といった帝国の「中核」地域から論じる伝統的なローマ帝国論よりも、帝国の辺境から考察するローマ帝国論のほうが、新しい研究と解釈の可能性を秘めていると感じている。

 皇帝政府が帝国支配のパートナーである各地の有力者たちが、それぞれの地で住民を支配しており、かつ彼ら有力者が帝国への帰属意識、「ローマ人」としての自己認識を持ってローマ風の生活様式に意義を見出している間は、帝国ローマは世界を統合する力を持ちえた。また、一般住民も「ローマ人である」ことに社会的上昇の手段としての価値を見出せば、ローマ帝国は求心力を持ちえた。ローマ帝国とは、広大な地域に住む、それぞれ固有の背景を持つ人々を「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下にまとめ上げた国家であった。「ローマ人である」というアイデンティティは、出身部族や居住地、あるいは宗教などを理由として誰かを排除するものではなく、多様な人々を統合するイデオロギーとなった。

 ローマ帝国を国家として実質化させていたのは、軍隊である。ローマ人は征服地に自治を認めながらも、軍事力は取り上げて自分たちが独占すると同時に、治安維持を自らの義務とした。自分たちが「ローマ人である」との自己認識を持つ兵士たちが存在し、彼らによって守られた軍隊駐屯線が、曖昧な帝国を実質化していたのである。ローマ帝国を実質化していたのは、軍隊そのものではなく、「ローマ人である」という兵士たちの自己認識である。相手が「敵か、味方か」の決定的な分かれ目は、相手がどの部族・民族に属するかということではなく、「ローマ人である」自己認識を持つか否かであった。

 次に重要な帝国実質化の要素は、「ローマ人」としての生き方である。これは実際には、ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践することといってよい。属州の民や外部世界から属州に入って生きていこうとする者は、まずこれらのことを実践しなければならなかった。

 ローマ帝国を実質化する要素の第三は、都市の有力者たちとの共犯関係であった。ローマは有力市民に都市自治を担わせるだけでなく、徴税などの国家の業務も委ねた。都市の有力者のほうも、ローマの力と権威を借りて、地元における支配力を強化した。すなわち、ローマ帝国と都市の有力者は、支配者として完全な「共犯」関係にあったわけである。

 ローマ市やイタリアを中心とする伝統的な価値観を持つローマ市民は、森と大河の世界の住人および出身者を、文明を知らぬ粗野な者と軽蔑する意識は持っていたが、その人々がひとたびローマ人としてふさわしい生活するならば、彼らを受け入れた。民族という考え方を基礎にした近代ナショナリズム的思考は、最盛期のローマ帝国には無縁であった。ところが、四世紀の最後の四半世紀くらいから、こうした認識に変化が生じてきた。とりわけ378年のアドリアノープル(現在はトルコのヨーロッパ側の領土の西端に位置するエディルネ)の戦いで西ゴート族にローマ軍が大敗北しウァレンス皇帝の戦死は、従来の見方を変える大きな契機となった。外部世界に住む人々、そこからローマ帝国に移ってきた人々を、個別の部族を越えて「ゲルマン人」とまとめてとらえ、野蛮視、敵視する見方が成長してきた。もはや、誰でもローマ市民になれ、ローマ帝国はどこまでも拡がる世界である、といった最盛期の寛大な思想は消え失せてしまったかに見える。ローマ帝国の統合を支えていた「ローマ人である」というアイデンティティは危機に瀕していた。

 外部世界の人々を「ゲルマン人」として差別化する、排他的な姿勢は、丁度同じ時期に進んだキリスト教の国教化にも通じるものであった。政治家司教アンプロシウスの考えるローマ帝国とはキリスト教徒たる「ローマ人」の排他的共同体であり、「蛮族」は排斥されるべき存在であった。そして、テオドシウス帝(在位:379年 - 395年)は、392年にキリスト教を国教とした。ローマ社会の人々の信仰の自由は一気に失われた。伝統的なギリシャ・ローマ宗教は厳禁される。さらに五世紀になると、伝統宗教を信じる人々がキリスト教徒によって迫害され、惨殺される事件まで生じた。キリスト教内部でも異端とされたものは、徹底的に排除されるようになった。本来寛容を重視するキリスト教は変質した。こうして、著しく不寛容な宗教体制が完成する。

 406年の大晦日、バンダル族、スウェイ族、アラニ人の諸集団が現ドイツのマインツ市あたりで、ライン川を渡り、属州に入った。以後、外部部族がライン川より東に押し戻されることはなくなる。属州に侵入した集団は、ローマ軍の同盟者だったフランク族を退けて西進し、一部は北へ、一部は南へと向かった。これがローマ帝国西半において五世紀後半まで続くガリアへの「蛮族の大侵入」の幕開けである。現在のドイツ西部からオランダ、ベルギー、フランス北部にわたる地域が大きな被害を受けたことについては、都市やウィッラ(イタリア風の農業屋敷)の考古学調査から否定し難い。かつてギボンは『衰退史』の中で、406年末の諸部族の侵攻について、「すべてを焼きつくす戦争の業火は、ライン河の岸からガリア十七の属州の大部分に拡がった」と書いている。ギボンが考えたほど至る所が破壊し尽くされたわけではないかもしれないが、この侵入を機会に使われなくなったローマ都市や村々、そしてウィッラ(イタリア風の農業屋敷)は数多いのである。

 四世紀から五世紀にかけての時期は、政治だけでなく、住民の移動や宗教の変化など社会のあらゆる面で激動の時代であった。その時代に生きる人々価値観や規範も大きく揺らぎ、変化した。その時期に、世界情勢を見ない排他的な政治思潮が現れて、帝国政治に影響してしまったことが、西半における帝国ローマの命取りとなったのである。