北国紀行での中野
行程
歌僧尭恵は、文明十七年(1485年)秋以来、美濃国郡上の東頼数のもとに滞在していたが、翌年の五月末郡上を出て飛騨・越中・越後・信濃・上野等を経て、草津、伊香保の温泉に浴したり、関東管領上杉顕定に会ったり、善光寺に詣でたり、諸所の歌会に臨んだりして文明十八年の十二月なかばに武蔵国に入り、翌年の二月に相模に行き、鎌倉、三崎等に遊び、六月にはまた武蔵に来て、九月上野より信濃に入り、やがて越後へ向かって旅立った。中野には帰路六月二十八日に立ち寄っている。
中野での一節
同廿八日(1487年6月28日)、武蔵野のうち中野といふ所に平重俊といへるが催しによりて、眇々たる朝露をわけ入りて瞻望するに、何の草葉の末にも唯白雲のみかかれるをかぎりと思ひて、又中やどりの里に帰り侍りて、
露はらふ道は袖よりむら消の草葉に帰る武蔵野の原
(露を払って進む道は、袖に余る丈の草がところどころ消えていて、それを分けて武蔵野を帰ることだ。)
漸日高く昇りて、よられたる草の原をしのぎ来るほど、暑さしのび難く侍しに、草の上にただ泡雪の降れるかとおぼゆるほどに、富士の雪浮びて侍り。
夏知れる空や富士の嶺草の上の白雪あつき武蔵野の原
(夏であることを知っているのか、富士山は草の向こうに白雪を戴いているよ、この暑い武蔵野で。)